石島_(韓国)
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^ 1953年段階では、韓国政府は「ドク」を慶尚道方言としていた(李漢基(1969)など)[2]。一方「ドク」が全羅道方言であることを主張したのは慎纛(1996)などである[2]。このように、一方では慶尚道方言、もう一方では全羅道方言から説明する方法について池内敏は、韓国内では「石島=独島」という「初めに結論ありき」の議論であり、その一致にいかに整合性をもたせるか苦慮しているのではないかと評している[2]
^ 具体的には、1694年に鬱陵島を巡察した張漢相が鬱陵島の高所から南東方向に視認できた島が竹島=独島であることは間違いないと考えられるが、張漢相は『鬱陵島事績』において、それを鬱陵島の3分の1ほどもある島と記録している[2]。安龍福に関しては、『粛宗実録』1696年条に、追跡した日本人が「松島(当時の竹島の呼称)で釜を並べて魚を煮ていた」という彼の言葉が記録されている[2]。「鬱陵島の3分の1」というのが張漢相の誇張か錯覚であるとしても、そのように判断された以上、そのような大きさをもつ島が「石のような島」であるはずがないし、人が煮炊きできるような島が「石のような島」ではありえないというのが、池内敏の見解である[2]
^ これについては、2018年、朴炳渉が鬱陵島の空島政策が廃止される1882年以前から、巨文島や初島などの全羅道出身者が鬱陵島で生活しており、かれらが漂流によって独自に独島=竹島を「発見」して、そこで1894年頃からアシカ漁をはじめたと主張しており、「トクソン」は彼ら全羅道出身者によって名付けられた名称で、1883年以降の欝陵島の開拓以降、鬱陵島には全羅道出身以外の移住者が増えたために、「トクソン」を石島と表記する代わりに「独島」と表記されるようになったと説明している[17]。これに対し、池内敏は2010年時点では、朴炳渉がそれまでに明らかにした朝鮮人鬱陵島民によるアシカ漁はいずれも1900年以降のものであることを指摘し、勅令41号以前に季節的な来島者も含めた朝鮮人鬱陵島民が独島=竹島に出漁したことについて、史実にもとづいた実証は何らなされていないと述べていた[18]。しかし、朴炳渉によれば、池内はその後石島に関する見解を大きく展開し、音韻変化説に「客観的かつ文献的な傍証をあたえる」と主張するに至っているという[19]
^ 1906年島根県は竹島と鬱陵島の実地調査を実施し、随行した奥原碧雲が『竹島及鬱陵島』として調査成果をまとめたが、そのなかで、鬱陵島の地名で朝鮮語での発音を併記した地名を掲載した地図がある。それによれば、鬱陵島北岸の東に「亭石浦」の地名が示され、その発音を'チョンドロボ(Chon-Doro-Bo)'としている。これにより、当時現地では、石を「DokまたはTok」ではなく「DolまたはTol」と発音していたことが判明した。
^ 于山島の名が勅令で使用されなかったことについて、朴炳渉は、1882年に欝陵島を検察した李奎遠や1900年に欝陵島の日韓合同調査にあたった視察官禹用鼎らが于山島を現地で確認できず、1900年頃に住民による于山島探索活動も失敗に帰したことを理由に挙げている[7]
^ 「独島」表記の初出は、堀和生が発掘した日本海軍防護巡洋艦新高1904年9月の日誌に残された「韓人これを獨島と書し」という鬱陵島在住朝鮮人が独島と呼んでいたという記録であり、韓国側の記録では1906年の郡守沈興沢報告書の「本郡所属独島」の記載が初出であって[4]、これは、戦前において現存するほぼ唯一のものである[7]
^ 2017年8月、韓国メディアは『大東輿地図』に「独島」が描かれた「筆写本」が見つかったことを報道した[23]。しかし、これは竹嶼に于山島の記名を付した1834年の金正浩『青邱図』(1711年の『鬱陵島図形』の系統に属する)をもとにした後世の加筆であり、1861年の『大東輿地図』の原本では于山島が削除されている[24]。このことについて下條正男は、「于山島を竹嶼のこととした金正浩の意志に反して、『大東輿地図』の筆写本には于山島が描かれ、それを独島と曲解した」ものと指摘している[25]
^ 「独島」は北緯37度14分、東経131度52分の位置にある。なお、『大韓地誌』は当時、韓国の地理教科書にも使用された官撰の地理書である。
^ 調査命令の記録は、「報告書号外」「指令第三号」『各觀察道去來案』(ソウル大学校奎章閣所蔵、奎 17990)(1906)による[9]。この文献は、愼纛(1989)「朝鮮王朝?獨島領有?日本帝國主義?獨島侵略」『韓國獨立運動史研究』第3輯で初めて紹介された史料である[9]
^ この資料は、杉野洋明が発見し、2008年2月22日付『山陰中央新報』でも「石島=独島説否定の記述見つかる」として報道された[9]。同様の資料に1906年7月13日付『大韓毎日申報』の「池田公函」(韓国語) の記事がある[9]
^ 「二百里」は約80キロメートルに相当するが、直線距離を示すのではなく、長辺六十里・短辺四十里の矩形の四周と考えられる。
^ この件について山崎佳子は、『鬱島記』を筆録した中央政府からの視察官である禹用鼎が島監を差し置いて、季節労働者にすぎない全羅道漁民による地方訛りの特殊な呼び名を公文書や勅令に採用するとは到底考えられない、と指摘している[6]
^ 可能性としては「竹島石島」を「竹島即石島」、すなわち「竹島(竹嶼)=石島」の意味で表記したということもありうる。
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