石山本願寺
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更に晴元からの要請に応じた法華一揆衆や近江守護六角定頼によって、同年8月23日に3万から4万の兵で包囲された山科本願寺は、寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまう(山科本願寺の戦い)。「享禄・天文の乱#石山本願寺への移転と和議成立」も参照
石山本願寺時代顕如影像

この時証如は大坂にいたが、このまま寺基を移し石山本願寺時代が始まった。山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、ようやく翌天文2年(1533年)7月25日に鎮座した。この年が築城年にされているのは、この鎮座の時期が理由とされている。

この間も晴元と石山本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが石山本願寺攻めに加わり、石山本願寺では坊官下間頼盛が指揮官として赴任し、紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりしていたが、天文4年(1535年)11月末、山科本願寺の戦いから約4年後、ようやく両者で和議が成立する。下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放され、後に暗殺された。

細川晴元らとの抗争の中で石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵をめぐらし「寺内町」として防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭都市に至ったと考えられている。

証如から顕如の時代となり、西日本、北陸地域の一向宗徒の勢力と、富の蓄積も拡大していった。イエズス会所属ガスパル・ヴィレラ永禄4年(1561年)8月の手紙に、

「日本の富の大部分は、この坊主の所有である。毎年、はなはだ盛んな祭り[注釈 4] を行い、参集する者ははなはだ多く、寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者をだす。(中略)夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。朝になって鐘を鳴らして朝のお勤めの合図があると、皆、御堂に入る[5]。」

?ガスパル・ヴィレラの手紙

と報告されるほど本願寺は多数の門徒とその門徒がもたらす財力を有していたことがわかる。

証如期には中央権門や戦国大名家への外交も展開されており、中央権門では天皇公家衆へ接近を強め、東国の戦国大名家では甲斐国武田氏[注釈 5]相模北条氏康北条氏政[注釈 6] 親子と親交を結ぶ。そして三条公頼の三女教光院如春尼を、法敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢の、続いて細川晴元の養女としたうえで顕如の正室に迎え入れ、戦国大名と同盟を結んでいき基盤の安定を整えて、石山本願寺の絶頂期をむかえていた。
石山合戦と廃城石山合戦絵伝 第一幅
成宗寺蔵石山合戦図(写)
和歌山市立博物館蔵

しかし、その前に立ちはだかったのが織田信長である。信長は上洛直後の永禄11年(1568年)に石山本願寺に対して矢銭5千を要求した。また元亀元年(1570年正月に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われている。これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように指示を出した。同盟軍で三好三人衆軍が織田軍と戦っている最中に、打倒信長に決起したのが同年9月12日であった。「石山合戦」および「野田城・福島城の戦い」も参照

ここから石山合戦が蜂起し、これ以降石山本願寺と織田信長の戦いは、連続した戦闘だけではなく、和睦戦術を交え途中断続し、両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら11年間続いた。紀州惣門徒中に向けた檄文
西本願寺所蔵

まず、織田信長は、天正元年(1573年)8月20日に「一乗谷城の戦い」において朝倉義景率いる朝倉軍を追撃して滅亡させる。同年9月1日には、「小谷城の戦い」において、居城の小谷城に籠城した浅井長政を滅亡させる。本願寺勢力は同盟関係にある朝倉義景と浅井長政を失うことによりより苦しい状況に追い込まれる。

続いて信長は、一向一揆に対して殲滅戦を開始する。天正2年(1574年)9月に長島一向一揆を平定、天正3年(1575年)8月に越前一向一揆を平定する。信長によるこれらの殲滅戦によって、石山本願寺は次第に追いつめられていった。同年10月に顕如は戦局好転の一時的な手段として信長に有利な和睦を申し入れ、信長は受け入れた。この時信長は、武田勝頼や毛利輝元などに挟撃されかねない状態であったため、戦略的にも有利な和睦の申し入れだった。

しかし天正4年(1576年)、顕如は各地の門徒衆に檄文を送り応援を求める。そして、食糧を蓄えたり、弓や鉄砲などの武器を集めたりするなど信長に対して臨戦態勢でいた[6][7]

顕如は天正4年(1576年)5月7日天王寺砦の戦いにおいて一旦は信長軍を追い込むものの大敗する。信長は大坂の周辺に10ヵ所の付城を造るように命じ、尼崎城大和田城吹田城高槻城茨木城多田城能勢城三田城花隈城有岡城が築城され、兵糧攻めに出る。また住吉方面の沿岸にもを設け海上を警固した。本願寺勢力はこれに対抗し守口、野江、難波、木津などに出城を構え籠城戦に入る。しかし信長による一揆の平定により、諸国の門徒からの救援は乏しく、寺内町として発展していた石山本願寺は食糧不足に陥る[6]


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