石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。 広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの10年間を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。 戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。 「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺系)と混交するためである。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある[注釈 1]。以下の文中においては単に本願寺と記す。 また、「石山本願寺」という呼称についても、近年「石山本願寺」の名称が登場したのは江戸時代以降で、石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説[1]があり、これを支持する研究者の間では「石山戦争」「石山合戦」の呼称は当時の史実と合致しないとして「大坂本願寺戦争」などの名称を用いる者がいる[2]。 大坂石山本願寺は、元は本願寺第8世法主蓮如が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。畿内では本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴元は日蓮宗徒の法華一揆らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(山科本願寺の戦い、天文の錯乱)。これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。本願寺は当時、加賀に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。また、山科焼失の前年に大小一揆と呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。
概要
発端