薔薇座に在籍していた頃週に1回、シェイクスピアの講義をしており、当時、劇団四季の研究所の所長に、「シェイクスピアでものすごいおもしろい翻訳をする人がいる」と小田島雄志を紹介され、渋谷ジァン・ジァンでシェイクスピア・シアターが舞台を演っていると勧められ観に行ってみたところ、凄く面白く、間の取り方、客に対する反応といい、石塚自身が思っていた芝居観と似ていたという[3]。
薔薇座退団後、シェイクスピア・シアター[7]の研究生を経て、劇団員となったが、1年2年経っても役がつかず「やめるやめない」という話になったという[3]。そうこうしていくうちに先輩の1人がやめることになり、抜擢されて初めてカタカナの役をもらったという[3]。
当時は今まで兵隊、召使、使者などの役しか演じたことがなかったことから、嬉しかったという[3]。『恋の骨折り損』のラテン語の先生役で台本にもラテン語が書かれていたが、「好きにやっていい」ということから、その頃タモリがTV番組でよくやっていたタモリ語を真似して「では行きましょう」というただ一言をラテン語っぽく1分間ぐらい繰り返し言って、客が「へぇ?っ」となった頃「すなわち、では行きましょう」と演じてみたところ、大いにウケたという[3]。総じて10分ぐらいしか出演していないが、ギャグをした時に観客が笑いながら波のようにうねったのを見て「客ってこうやって動くのか」と思ったという[3]。
それに対抗していたのが創立メンバーの佐野史郎で、当時の佐野はコメディぽい役を演じていたが、今イチうけず、当時の石塚の初日の時はこわかったことから全然うけなかった[3]。その時は「俺がやったって笑うわけないだろうな、客は俺のこと知らないんだし」とあまりにも自信がなかったという[3]。この時、「喜劇って人をのんでかかるところがないとダメだ」と凄く勉強させてもらったという[3]。「これぐらいでいいですか」と芝居したって絶対に客は笑わず、「おー、おめぇよく来たな。今日は笑わしてやるからな」という強いものをもたなくてはならなかったという[3]。初日の時、「こわくてこわくて、ちゃんとしゃべれるかな、最後までやれるかな」というそれだけしかなく、舞台に出演してもこわごわしていたことから客も心配そうに「誰だろう、あれ」となり、終わってから相手方の先輩に「どうせ客はおまえのことを知らないし、笑ってくれないんだから聞き直ってやれ」と、「がぁっ」と言われ、「もう、い?か?、なるようになれ」と思ってしていたという[3]。その時、ものすごい笑いがあり、ますます楽になって「もっとやってやるか?」と気になって相乗効果であり、3日目からは「俺が出れば絶対笑いがとれる」と自信が持てるようになり、次の年からちゃんと役をもらったという[3]。
シェイクスピアは37本中、喜劇が7本ぐらいであとは歴史劇、悲劇で佐野とは「悲劇になるとぜんぜん役つかんな、俺たち」とよく言っていたという[3]。当時は悲劇になるとカスのような役で新潟公演の時、佐野も石塚も風役で、台本になかったが、リア王が狂うところで嵐になり、石塚ら召使の人間が回りはじめたところ、「ふう?う?」と嵐のイメージになっていたという[3]。当初4人が固まって「ふう?う?、う?」と言っていたが、夜中に東京を出て新潟県に行っていたため、「疲れたね。つらいね?、旅はね?」と佐野としゃべりながら風の音出していたところ、あまりつらくて寝てしまってそのあとほかの人間が来て風になっていたが、残って、佐野に「起きろ、起きろ」と言われたという[3]。シェイクスピア・シアターでは年間100から120ステージぐらいでき、年がら年中芝居しており、ジァン・ジァンで毎月して、ほかに旅公演もあり、1日で稽古5本したこともあったという[3]。
当時、生活は屋台していると死んでしまい、夜、キャバレーで皿洗いのアルバイトをしていたという[3]。その店のショータイムでネズミ6匹並ばして競チューのようなのをしていたが、その司会をしており、プロダクションから来ていた司会者があまりにもヘタで、「支配人に俺にやらせてくれ」とギャラを聞くと「3万ぐらい出している」ということから、「俺5000円でいいからやります」と言っていたという[3]。しかし、「でもプロダクション経由だし、おまえは芝居やっているから来たり来なかったりするから」とできず、そういうのが好きで、北野武ではないが、ストリップ劇場の前ふりの司会、コントといった「そういう世界に行けばよかったな」と1999年時点では後悔していたという[3]。
劇団を退団後、「何やろうか」とストリップ劇場のある東京都台東区浅草をウロウロしており、劇団が10年目で分裂して、「僕はやめる」と言っていたが、「いてくれ」と頼まれて、マスコミの仕事はダメというところだったが、「人がいないからそれでもいい」ということになったという[3]。30歳を過ぎてもバイトをしており、将来に不安を感じていたが、劇団在籍していた頃東京都港区赤坂の飲み屋のバイトでその店に来ていた東北新社の人物が来ていたという[3][5]。一緒に働いていた劇団の後輩が東北新社に大学の同期がおり、東北新社の人物がよく来ていたという[3]。ある時、「声の仕事やってみない?あんたいい声しているから」とスカウトされたという[3][5]。