石塚運昇
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初日の時、「こわくてこわくて、ちゃんとしゃべれるかな、最後までやれるかな」というそれだけしかなく、舞台に出演してもこわごわしていたことから客も心配そうに「誰だろう、あれ」となり、終わってから相手方の先輩に「どうせ客はおまえのことを知らないし、笑ってくれないんだから聞き直ってやれ」と、「がぁっ」と言われ、「もう、い?か?、なるようになれ」と思ってしていたという[3]。その時、ものすごい笑いがあり、ますます楽になって「もっとやってやるか?」と気になって相乗効果であり、3日目からは「俺が出れば絶対笑いがとれる」と自信が持てるようになり、次の年からちゃんと役をもらったという[3]

シェイクスピアは37本中、喜劇が7本ぐらいであとは歴史劇、悲劇で佐野とは「悲劇になるとぜんぜん役つかんな、俺たち」とよく言っていたという[3]。当時は悲劇になるとカスのような役で新潟公演の時、佐野も石塚も風役で、台本になかったが、リア王が狂うところで嵐になり、石塚ら召使の人間が回りはじめたところ、「ふう?う?」と嵐のイメージになっていたという[3]。当初4人が固まって「ふう?う?、う?」と言っていたが、夜中に東京を出て新潟県に行っていたため、「疲れたね。つらいね?、旅はね?」と佐野としゃべりながら風の音出していたところ、あまりつらくて寝てしまってそのあとほかの人間が来て風になっていたが、残って、佐野に「起きろ、起きろ」と言われたという[3]。シェイクスピア・シアターでは年間100から120ステージぐらいでき、年がら年中芝居しており、ジァン・ジァンで毎月して、ほかに旅公演もあり、1日で稽古5本したこともあったという[3]

当時、生活は屋台していると死んでしまい、夜、キャバレーで皿洗いのアルバイトをしていたという[3]。その店のショータイムでネズミ6匹並ばして競チューのようなのをしていたが、その司会をしており、プロダクションから来ていた司会者があまりにもヘタで、「支配人に俺にやらせてくれ」とギャラを聞くと「3万ぐらい出している」ということから、「俺5000円でいいからやります」と言っていたという[3]。しかし、「でもプロダクション経由だし、おまえは芝居やっているから来たり来なかったりするから」とできず、そういうのが好きで、北野武ではないが、ストリップ劇場の前ふりの司会、コントといった「そういう世界に行けばよかったな」と1999年時点では後悔していたという[3]

劇団を退団後、「何やろうか」とストリップ劇場のある東京都台東区浅草をウロウロしており、劇団が10年目で分裂して、「僕はやめる」と言っていたが、「いてくれ」と頼まれて、マスコミの仕事はダメというところだったが、「人がいないからそれでもいい」ということになったという[3]。30歳を過ぎてもバイトをしており、将来に不安を感じていたが、劇団在籍していた頃東京都港区赤坂の飲み屋のバイトでその店に来ていた東北新社の人物が来ていたという[3][5]。一緒に働いていた劇団の後輩が東北新社に大学の同期がおり、東北新社の人物がよく来ていたという[3]。ある時、「声の仕事やってみない?あんたいい声しているから」とスカウトされたという[3][5]。当時はCMの世界のこと無知だったことから、「何ですか、それ」と言ったところ「CMなんかでナレーションとかよくやっているよね」と言われてもピンとこなず、「俺もメシが食いたいし、バイトばかりやっていてもなんだし、一回やらせてくださいよ」としてもらったという[3]。スタジオに行って原稿渡され、読んでおり、それを音サンプルにしたかったようで、そんなことも無知だったことから、「ぱ?っ」と読んで「はい、どうも」とそのあとスキーのCMをすることになったという[3]

テープ作りはその前にもしており、そのバイト先の飲み屋に東北新社のCM監督が来ていたが、その人物にも石塚は当時32、33歳だったことから「いつまでもバイトしているのしんどいから、マスコミの仕事なんかでメシ食えるようなものあったら紹介してくださいよ」と言われ、「声やるんだったら、どこでやりたいんだ」と言うことから「あまり知らないけど青二って聞いたことはあるけど」と言っていたところ、青二プロダクションのCM担当を紹介されたという[3]。そのCM担当に「こういう世界があるから、デモテープ作って持ってきたら」と言われたが、デモテープそのもの何だか分からず、「何でもいい」ということからリア王のセリフを吹き込んでいったと語る[3]

当初から青二プロダクションに所属するはずだったが、劇団の人物がたくさん所属してきたことから、「今入るのは無理」のようなこと言われたが、その時、東北新社のCM監督の人物が、「同人舎がおまえみたいなのをほしがっているから」と同人舎プロダクション[14]を紹介してくれて所属した[3]マツダマツダ・ルーチェのCMナレーションで声優としての活動を始める[3][5]。アニメでのデビューは『巨神ゴーグ[5]

CMナレーションの依頼が来ていたのがきっかけであり、マネージャーに「舞台をやっていたわけだし吹替もやってみては?」と言われて、「それなら一度やってみようか」となって、アフレコを始める[15]。初めての吹き替えの収録では役に立たず、声を合わせるのが精一杯であり、芝居をするどころではなかったという[15]。声を合わせられるようになってからは、舞台と同じく役を演じていたことを意識するようになったという[15]
晩年・死去

その後、2010年1月1日より、長年所属していたアクセント[16]を退所し、青二プロダクションに亡くなるまで在籍していた[17]

2018年8月13日食道癌により死去[12]


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