1970年代前半にはTBSの人気タレント調査で3年連続1位となった。
JNNデータバンク調べによる好感度タレントの支持率調査では、1972年7月に支持率42.6パーセントを記録し、これは同調査において1970年代の第1位の記録である[11]。
映画では1976年、横溝正史原作・市川崑監督による映画『犬神家の一族』に金田一耕助役で主演し、同年の邦画配給収入2位(13億200万円)のヒットとなり、シリーズ化される当たり役となった(以後、市川作品に常連出演し、『おはん』『ビルマの竪琴』『細雪』などに出演している)。
リメイク版『日本沈没』では首相役に挑んだ。小泉純一郎(元首相)は大学同期。
権勢家の役に配役されることが多く、天皇・征夷大将軍・首相のすべてを演じている。元禄期の大老・柳沢吉保役は、この人物を主役に据えた唯一の映像作品である『元禄太平記』以降、テレビと映画で3回演じた当たり役である。
石井ふく子および橋田壽賀子の作品に多く起用されており、石井組の一員と見なされている。
ナレーターとしても新人時代の『ウルトラQ』『ウルトラマン』(前半)をはじめ、『シルクロード』や『関ヶ原』などで活躍。
私生活では加賀まりことの同棲を経て1971年に浅丘ルリ子と結婚するも、ほどなくして別居するようになる。2000年12月、女優である浅丘に実母の介護をさせるわけにはいかないとして離婚。離婚から間もない5日後に2001年1月に再婚を発表[12]。大橋巨泉事務所から独立、フリーとなる。
1988年に「劇団急旋回」を結成。自らの脚本・演出によるオリジナル・ミュージカルを数多く上演したが、1996年に解散。
2001年4月から、時代劇『水戸黄門』の4代目水戸光圀役に起用された[注 1]。オープニング演出を市川崑が担当し、史実に基づいたストーリー展開、つけ髭をしない・衣装をマイナーチェンジするなど、知的でスマートなインテリ黄門様を演じたが、2002年5月に石坂が直腸癌の手術で入院したため、1年余りで降板となった。翌月には復帰したものの、その後はしばらく俳優活動を自粛している。2003年夏に昼ドラのゲスト出演(『貫太ですッ!』)で俳優活動を再開、『白い巨塔』、『新選組!』、『東京湾景』などのテレビドラマにレギュラー出演した。
俳優業のみならず、作家(三田文学会・会員)、司会者やクイズ番組の解答者など多方面で活躍。芸能界屈指の薀蓄を誇り、1980年代後半からの「クイズ王ブーム」の際には、毎回のようにゲスト出演していた。共演者には撮影直前までマイペースで薀蓄を語り続けることで知られる。『白い巨塔』の撮影時、あまりに薀蓄を語るため、共演の唐沢寿明を閉口させたという。
絵画では油彩画に精通し、29歳の時にフジテレビに1000万円を前借しギュスターヴ・モローを絵を購入している[13]。二科展で1974年から1985年まで連続入選[2]。一貫して裸婦を描いている。これはアマチュア画家で裸婦を描く者が少なかったからだという[注 2]。絵画に関する専門的な教育は受けていないが、東郷青児に師事し、手ほどきを受けている[14]。また、繊細で写実的な画風で「孤高の画家」とも呼ばれる画家、牧野邦夫の作品コレクターとしても知られている[15]。2004年からは横浜市青葉区内で自身がボランティアで講師を務める絵画教室「HEY ART CLUB」を主催している。
2011年(平成23年)4月1日、全国の交通安全協会で初めて公益社団法人となった神奈川県交通安全協会の会長に就任[16][17]。また、広島県呉市に戦艦長門の軍艦旗[18]を寄贈した縁により、2015年(平成27年)5月9日に呉市海事歴史科学館大和ミュージアムの名誉館長として委嘱を受ける[19]。2022年7月3日、事務所の社長とともに第26回参議院議員通常選挙に立候補した生稲晃子の応援演説を行った[20]。 本名の「兵吉」は、兵隊の「兵」と父・吉二の「吉」からとっている[21]。また名付け親は外祖父の平沼亮三だといわれている[21]。 カレー作りが得意で、独特のスパイス調合で何種類もの味を作り、自らカンヅメにして共演者に振舞っている。またカレーパンも好物で、著書も出版している。 画家としても知られ、自らの作品の展覧会を度々開催することもある[22]。また、1976年6月26日に開催された異種格闘技戦『アントニオ猪木対モハメド・アリ』戦の広告ポスターを描いた。そのポスターを見たモハメド・アリが「私はこんなに醜い男ではない」と苦笑したという[23]。その猪木対アリ戦で、アントニオ猪木が入場の際に着用したリングガウンも石坂のデザインで製作されたものである。
エピソード