石原裕次郎
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予定の通り13話で降板するという石原を夫人や竜雷太らが説得し、出演を継続することとなり[12]、日活黄金期の石原を知らない若い世代にも番組においての名称であるボスとして認識されるなど[4][7][10]、人気を獲得[10]、番組は1986年まで続き、高い視聴率を記録した[4]

1973年石原プロ製作の映画『反逆の報酬』に主演、その後『凍河』に友情出演、また『わが青春のアルカディア』では声の出演をしたが、この作品が最後の主演にして最後の本格的な映画出演となった。

1976年からは『大都会シリーズ』、1979年からは『西部警察シリーズ』などの企画・助演など多面的に活躍しつづけた[7]

1977年に発売された『ブランデーグラス』は発売時にはほとんど売れなかったが、数年後に『西部警察 PARTI』の第48話「別離のブランデーグラス」の中で裕次郎が歌うと、売り上げが伸び始め、152万枚を売り上げるヒット曲となった[13]。1986年、病気療養のため渡哲也に代役を任せ『太陽にほえろ!』を一度降板、同番組の最終回718話で復帰、ワンカット7分間のアドリブで命の大切さを語る圧巻の演技を見せたが[14][15](後述のエピソード欄にアドリブの補足あり)、これが俳優としての最後の演技に、そして渡哲也との最後の共演になった[16]
闘病

1978年、舌下潰瘍のため入院、手術。その後、悪性腫瘍舌癌)との診断を受けたが、本人には告知されなかった(1983年再発)。1979年には舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術する。

1981年4月、『西部警察』のロケ撮影中に背中と胸に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後、解離性大動脈瘤と診断され大手術を決行。生還率3%と言われたが、奇跡的な回復を遂げ無事退院した[注釈 1]。退院後も首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴となった。

1984年、肝臓癌が発覚した。前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知をされなかった。

1986年5月、高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断され、7月の退院後はハワイで静養した。
死去

1987年4月20日、体調不良を受けてハワイから急遽帰国し、慶應義塾大学病院へ検査入院[注釈 2]。5月2日に一旦退院したものの、3日後に再入院し容態が悪化。幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後も意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止。酸素吸入により一度は心拍が再開するも、16時26分再度心停止し死去。52歳没。裕次郎の遺言は「俺が死んだら即会社をたたみなさい」であったが、まき子夫人が所属俳優やスタッフに言い出せなかったため、石原プロモーションはその後も存続した。

戒名は、陽光院天真寛裕大居士。墓は、万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑にはまき子夫人の直筆で次のような言葉で綴られている。美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。
没後

死後に生前録音していた『北の旅人』、『わが人生に悔いはなし』が発売され、北の旅人は125万枚を売りげるヒット曲となった。

没後、毎年7月17日には總持寺で法要が行われ、裕次郎が生前あじさいの花が好きだったということにちなんで「あじさい忌」と呼ばれていた。まき子夫人や舘ひろし神田正輝ら石原プロモーションの俳優・スタッフが集結し、記者会見を行うのが定例となっていた。また多くの一般客ファンも参列し、年忌法要では一般参列者に記念品がプレゼントされるといった、身内だけの法要に留まらない大規模イベントとなっていた。1993年の七回忌は3万8000人、1999年の十三回忌は20万人以上が参列した[17]。十三回忌で20万人以上の参列者の人出で總持寺周辺が大混乱したことから、2009年の二十三回忌は国立競技場に総持寺の本殿を再現した拝殿を建てて行われ、約12万人が参列した[7]

1991年7月22日、裕次郎ゆかりの品々を展示する石原裕次郎記念館が、裕次郎が幼少時に過ごした小樽、しかもヨットマンだった裕次郎にふさわしい場所である小樽港マリーナの隣に開設された。多数のファンが訪れ裕次郎をしのぶ場となっていたが、2017年8月31日、入場者減少や施設の老朽化もあり、閉館。その代替として、2018年7月17日に行われた32回忌法要では、法要終了後、同年8月22日より2年間、全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した[18]

そして2019年7月17日に行われた33回忌法要の終了後の会見にて、まき子夫人が、今回をもって「弔い上げ」とし今後は石原プロとしての墓前供養を行わない旨を発表した。まき子夫人のほか一般参列者が高齢化し、裕次郎の墓がある高台まで昇るのが困難になっていることへの配慮を理由とした。小樽駅の4番線、(愛称:裕次郎ホーム)に設置されたパネル

2020年7月には「株式会社石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」として、2021年1月16日を以て芸能事務所としての業務を終了することが発表された[19]。そして発表通り、2021年1月16日に「解散式」が執り行われ、3月31日に全業務を終了。2021年4月30日、株主総会にて解散が決議された。
ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "石原裕次郎" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年7月)

裕次郎は日本のセーリング界でもその歴史に名を残している人物[20]である。

もともと父親が郵船会社の社員、つまりの世界に生きていた人物で、父親の転勤の折、父親の判断で海の近くの逗子、逗子湾近くに住居を構え、その地で裕次郎がヨットに興味を持ち、裕次郎の熱烈な希望に応える形で父親が木製のディンギーヨットを買い与えたのが、裕次郎にとってのヨットとの本格的な付き合いの始まりとなった[注釈 3]。兄・慎太郎も一発でこのディンギーヨットの操作方法を会得し[注釈 3]、兄弟でヨットを楽しむようになり、主に逗子湾や葉山などをフィールドに経験を深めていった。当時の日本ではそもそもセーリング・ボートを所有している人が大人を含めてほとんどおらず、ましてや学生の身分ですでに自分のセーリング・ボートを所有している人は(ほぼ)いなかったので、二人は日本のセーリング界では稀有な存在となってゆくことになった。

その後、裕次郎が俳優として映画界で活躍するようになると、石原兄弟のセーリングへの情熱、その経験や技術は、映画作品のシーン構築や撮影でも活用されるようになった。結果として日本の映画のシーンにセーリング・ボートが何度も登場するようになり、それを見た映画観客がセーリングに興味を持ち、結果として日本のセーリング人口を増やすのにも貢献した。石原兄弟は有名人となり裕福になるにつれ、艇をディンギーからセーリング・クルーザーへと、そして徐々に高級な艇へとグレードアップしていった。艇には、兄・慎太郎の趣味で「コンテッサ」という名(フランス語で「伯爵夫人」の意)をつけ、その名は艇を買い替えても「コンテッサII」「コンテッサIII」...と継承されてゆくことになる。この名は他には無い独特のものなので、日本のセーリング界では、ヨット・レースなどの出場艇のリストに「コンテッサ」とあれば、誰でも即「石原兄弟の艇だ!」と分かる存在となっていった。コンテッサには、主に石原兄弟の地元の逗子や葉山在住の古くからの仲間などが、クルーとして乗り込んだ。

コンテッサ号は、いくつもの国内ヨット・レースに参加し日本のセーリング界を盛り上げる一翼を担いつづけたが、中でも特筆すべきことは、1963年、裕次郎がトランスパシフィック・ヨット・レースに兄弟の愛艇「コンテッサV」で参加したことである[20]


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