石原莞爾
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大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
在外武官時代

ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンフリードリヒ大王らの伝記を読んだ。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。
関東軍参謀時代

石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた[5]

昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満洲に赴任した[6]。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。

昭和6年(1931年)満洲事変を起こし[7] 、23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍で満洲を占領した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満洲事変をきっかけに行った満洲国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。さらには関東軍に代わって満洲国協和会による一党独裁制を確立して関東軍から満洲国を自立させることも主張していた[8]
二・二六事件の鎮圧

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している[9]

この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満洲派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。

安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、何もしなかった[10]

また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒し、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。
宇垣内閣の組閣を断念させる

昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。

しかし、石原莞爾参謀本部第一部長心得や田中新一陸軍省兵務局兵務課長を中心とする陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して大命を受けた。

しかし、石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。こうして宇垣は陸軍大臣を得られず、やむなく組閣を断念し、石原の策は見事に成功した。だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣断念の後に政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるものである。

なお、反宇垣派の中心的な人物であった石原と田中は仙台陸軍地方幼年学校の出身で、石原の原隊は歩兵第65連隊、田中の原隊は歩兵第52連隊でこれらはすべて宇垣軍縮により廃止されている。この怨念が反宇垣に走る原動力だったと理解することもできる[11]
左遷

1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満洲での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満洲事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変日中戦争)開始時には参謀本部第一部長(作戦)であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。
ふたたび関東軍へ・東條英機との確執1940年に満洲国から贈られた勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)の勲記

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には満洲国の首都である新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満洲国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満洲国を満洲人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。これには、東條は恩賜の軍刀を授かっていない(石原は授かっている)のも理由として挙げられる。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。
予備役編入「東條英機#石原莞爾中将を予備役編入」も参照

石原は、昭和13年(1938年)6月に、病気を理由に関東軍参謀副長を辞任したいと申し出て、人事発令を待たずに内地に帰国して入院してしまう、という暴挙に出た[12]。石原は特に処分を受けずに同年12月に舞鶴要塞司令官に補され[12]、昭和14年(1939年)8月には陸軍中将に進級して第16師団長に親補された。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。
立命館大学国防学研究所長立命館大学

石原が立命館総長中川小十郎と関わりをもったのは舞鶴要塞司令官時代のことで、中川が舞鶴の官舎を訪れ、立命館日満高等工科学校設立への協力を要請したことがきっかけとなっている。


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