石原慎太郎
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その中に石原も含まれていた[39]

1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ[40][41]、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した[42]。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった[43]。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会[44]は石原のために動員をかけた[45]。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し[46]、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った[47]。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した[48]。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。

1972年9月29日、田中角栄周恩来日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。

1973年、石原は、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。

1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請[49]。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿[50]ではなく、石原を応援した[51]。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し[52]、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した[注釈 4]。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った[54]

1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった[55][56]

1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年清和政策研究会に合流する。

1987年竹下内閣運輸大臣に就任。12月に宮崎県リニア実験線に試乗した際、「鶏小屋豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。

1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年3月にはJR東日本京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した[57]。「成田空港高速鉄道」、「成田新幹線」、および「京成電鉄」も参照

1989年亀井静香平沼赳夫園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派海部俊樹に敗れる。1990年第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎[58]
東京都知事時代都知事時代(2006年9月1日)詳細は「石原都政」を参照

議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補[59]。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。

2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。
衆議院議員復帰後
国会質疑2013年10月16日(水曜日)、代表質問をする石原(右)

衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした[60]。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた[61]

同年4月17日と12月4日には安倍晋三首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には第185回国会衆議院本会議において所信表明演説に対する代表質問を行った。


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