石原慎太郎
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石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある[26]。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた[27]。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている[28]

俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している[29][注釈 2]

政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。
評価

作家としての石原は、
田原総一朗[30]水道橋博士[31]豊崎由美栗原裕一郎[32]などのような国家観の異なる者からも高く評価されている。

1957年10月『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない[33]

1959年(昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を三島由紀夫は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した[34][35]

文芸評論家福田和也は、日本の現役小説家を採点した自著『作家の値うち』(2000年)の中で『わが人生の時の時』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した[36][37][注釈 3]

季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで集英社の文芸誌『すばる』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている[38]

国会議員時代福田赳夫内閣の組閣にて撮影竹下内閣の組閣にて撮影

1967年10月3日、自由民主党本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた[39]

1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ[40][41]、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した[42]。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった[43]。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会[44]は石原のために動員をかけた[45]。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し[46]、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った[47]。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した[48]。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。

1972年9月29日、田中角栄周恩来日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。

1973年、石原は、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。

1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請[49]。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿[50]ではなく、石原を応援した[51]。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し[52]、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した[注釈 4]。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った[54]

1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった[55][56]

1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年清和政策研究会に合流する。

1987年竹下内閣運輸大臣に就任。12月に宮崎県リニア実験線に試乗した際、「鶏小屋豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。

1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。


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