学生時代サッカー部に所属し日本リーグ開始当初からチームを参戦させJリーグ創設の礎を構築した。また財界の一線を退いた後も2002年のW杯招致に尽力し2002年まで生きたいというのが最晩年の目標であったという。 数々の功績に対して、1983年には勲一等瑞宝章、1991年には勲一等旭日大綬章がそれぞれ授与された。また、政府の各種審議会などにも多く参加し、政策決定への影響力を持った。2002年のワールドカップ招致委員会会長を務め、同大会の日韓共同開催につなげた。 大の時代劇好きでも有名であり、『大江戸捜査網』(テレビ東京系)は、当時日産の宣伝部長であった石原の「土曜の夜に時代劇を見たい」という要望がきっかけとなって放送が開始されたという伝説がある。(大江戸捜査網#制作の事情も参照) 世間や現在の日産自動車において、石原への評価は高くない。日産の公式サイト内では歴代社長のリストはなく、石原社長時代の主要な事象は記録されても、社長である石原の名前は記載されていない。 これは既述の通り、労使関係の改革による経営自主権の回復への評価より、その後の経営危機の原因となった「グローバル10」への批判が大きいためと考えられる。欧州進出を強行する石原に対して塩路が浴びせた批判が的を射ていた事も、石原への評価を厳しくしている。 当時社員だった伊藤修令と渡邉衡三は後年『石原さんの力が凄すぎて役員であっても石原にとって都合の良いことしか言うことができなかった』と発言している 一方、経済同友会においては、その活動を活性化させた功績が評価されている。石原の死去の際には、北城恪太郎代表幹事による悼辞が翌日(2004年1月1日付)で発表され、現在でも同会の公式サイトで読む事が出来る[4]。
その他の活動
現在の評価
脚注[脚注の使い方]^ a b 東北大学ひと語録《いまに輸出を花型部門に育ててみせるよ。》石原 俊(いしはら たかし)
^ 渡辺喜太郎 (2012-05-16). ⇒“自民党幹部、日産をぶっ潰してやるよ!政治と財界の裏側”. ZAKZAK (産経新聞). ⇒http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120516/dms1205160709002-n1.htm.
^ 昭 和
^ 『 ⇒石原俊元代表幹事のご逝去の報に接して』(プレスリリース)社団法人経済同友会、2004年1月1日。 ⇒http://www.doyukai.or.jp/chairmansmsg/comment/2003/040101b.html。
先代
川又克二日産自動車会長
第2代:1985年 - 1992年次代
久米豊
先代
豊田英二日本自動車工業会会長
第3代: 1980年 - 1986年次代
豊田章一郎
先代
藤木竹雄企業研究会会長
第4代:1986年 - 1996年次代
鈴木哲夫
先代
田淵節也中東調査会会長
第4代: 1991年 - 1998年次代
稲葉興作
表
話
編
歴
経済同友会代表幹事
諸井貫一1946-1947
大塚万丈1947-1948
堀田庄三1947-1948
永野重雄1948-1950
工藤昭四郎1948-1952
浅尾新甫1950-1951
藤山愛一郎1951-1952
山際正道1952-1955
東海林武雄1952-1955
岸道三1955-1958
中山素平1957-1959
井上英煕1958-1960
岩佐凱実1959-1961
木川田一隆1960-1962
水上達三1961-1963
二宮善基1962-1963
木川田一隆1963-1975
佐々木直1975-1985
石原俊1985-1991
速水優1991-1995
牛尾治朗1995-1999
小林陽太郎1999-2003
北城恪太郎2003-2007
桜井正光2007-2011
長谷川閑史2011-2015
小林喜光2015-2019
櫻田謙悟2019-2023
新浪剛史2023-
表
話
編
歴
日産自動車歴代社長
鮎川義介 1933.12-1939.5
村上正輔 1939.5-1942.2
淺原源七 1942.3-1944.9
工藤治人 1944.9-1945.6
村山威士 1945.6-1945.10
山本惣治 1945.10-1947.5
箕浦多一 1947.5-1951.10
淺原源七 1951.10-1957.11
川又克二 1957.11-1973.11
岩越忠恕 1973.11-1977.6
石原俊 1977.6-1985.6
久米豊 1985.6-1992.6
辻義文 1992.6-1996.6
塙義一 1996.6-2000.6
カルロス・ゴーン 2000.6-2017.3
西川廣人 2017.4-2019.9
山内康裕[ノート 1] 2019.9-2019.12
内田誠 2019.12-
^ 社長代行