石井竜也
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好きな食べ物はハンバーグと卵焼き他、卵料理[2]と乳製品。嫌いな食べ物はミョウガ大葉など薬味に使用されることの多い香味野菜、香りの強い青魚も苦手である。現夫人はカナダ東部ハリファックス市出身のカナダ人。ダンサー(芸名:マリーザ)、女優(芸名:石井・ハナ・マリーザ)として活動している。2002年に長女が誕生。パピヨンペルシャ猫を飼っている。米米CLUBのメンバーでもあるSUE CREAM SUE(現:シューク・フラッシュ!)のMINAKOは実妹。サクソフォーン奏者でもあり音楽家の金子隆博はMINAKOと結婚したため義弟にあたる。

文化学院美術科(油絵専攻)卒業。1985年ジェームス小野田らと米米CLUBを結成し、ボーカリストとしてデビュー。

楽曲制作やライブツアーに加え、作品展の開催や、プロデューサーとしての仕事も多い。ライブでは、舞台セット・衣装・キャラクター等のデザイン、脚本まで全て自ら行っている。

チャリティー企画に賛同し、世界平和や自然保護を趣旨とするイベントに積極的に参加。2002年より、アートで平和を祈念する活動「T.I GRAND PROJECT」を続けている。

愛称は「テッペイちゃん」。文化学院時代からのもので、「渋谷哲平に似ていたから」(米米CLUBの書籍『米の器』より)、「漫画“おれは鉄兵”の髪型に似ていてからかわれてから」(『罪と罰』、『PATiPATi』インタビューなどより)など諸説ある。

監督した映画作品『ACRI』の興行が低迷し悩んでいたところ、父より「お前の財産は心の中にある」と言われ、改めて前向きな意欲を持つことができたと語っている。

茨城県北茨城市の実家は、石井製菓という老舗の和菓子屋を営んでいた。しかし後継者がいなかったため和菓子店を閉店したのち、石井のアート作品などを展示する「アートサロンギャラリー石井屋」となっていたが、2009年に78歳で実父が他界した後は営業していなかった。更に2011年東日本大震災地震津波によって全壊した事を自らの公式ホームページで明らかにしている。その後、被災地となった地元の復興のために幾度も足を運び、チャリティーイベントや寄付活動も行っている。2022年に執り行われた成人式の式典にもサプライズゲストとして登場し、新成人を励ました[3]

沖縄県久米島町山城に建設される福島の被災児童のための保養センター「沖縄・希望21(仮称)」に賛同人として名を連ねている。寄付を行ったほか、東日本大震災の被災者支援を軸としたアーティスト活動を行っている[4]
略歴

1959年 - 茨城県北茨城市に生まれ育つ。絵画好きの父・昭雄の影響で3歳から油絵の先生による手解きを受ける。

1978年 - 画家を志し上京。神田駿河台にあった文化学院に入学。美術科に在籍し油絵を専攻する。学生でありながら画商が付く腕前であった。本来は難関の東京芸術大学志望だったが入試で不合格となり、一浪してでも入学したかったのだが、浪人生活ができるほど資金がなかったため私立の専修学校に進学をしたという。

1982年頃 - 文化学院卒業。その後に街頭パフォーマンスを始める。学生時代に在籍していた映画研究会「A-Ken」のメンバーを中心に米米CLUBを結成。初期は「ドナルド平原」と名乗り、後に「カールスモーキー石井」と改名。本人談によれば一時期、「カールスモーキー中村」と名乗っていたことがあったらしい。

1985年にレコード会社13社の争奪の末に、CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりデビューした。大手プロダクションに在籍せず、事務所「SHARISHARISM」を設立。バンド内では、ボーカルや司会としての役割の他に、大多数の楽曲の作詞作曲、舞台セット・CDジャケット・衣装・グッズ等のデザイン、メンバーのメイク等を担当。リーダーBONと共にバンドを総合的にプロデュースする。

1988年 - 1989年 - ビデオクリップ「KOME KOME WAR」「FUNK FUJIYAMA」の監督を務め、アメリカMTVが主催するMTV Video Music AwardsのInternational Video Awardで2年連続グランプリを受賞。

1992年 - 松任谷由実とのデュエット曲「愛のWAVE」を発売。米米CLUB君がいるだけで」で第34回日本レコード大賞受賞。

1993年 - チャリティーグループ「USED TO BE A CHILD」に参加。

1994年 - 展覧会「石井竜也未来遺跡展」開催。第1回監督映画『河童』公開。

1995年 - 8月 和田アキ子のシングル「さあ冒険だ」を作曲し、米米CLUBで編曲も担当。

1996年 - 第2回監督映画『ACRI』公開。興行的には振るわず、15億円の負債を抱える。後に自殺も考えたという[5]。また後の著書「イノセント」では「赤字をバンドで補填させるようなことはしたくない」との趣旨も著している。

1997年 -

3月、米米CLUB解散。ソロ活動を開始。

4 - 5月、“LIVE-A-LIVE”を行う(全5公演)。1部がコンサート、2部がステージで絵を描くアートパフォーマンスという2部構成。翌年から開始する“ART NUDE”の前身的ライブ。

展覧会「PARALLEL WORLD・空想美術館」開催。

7月27日、プロレスラーハヤブサのコスチュームをデザイン。以降ハヤブサが亡くなるまで交友が続く。

9月25日、ソロデビューシングル「WHITE MOON IN THE BLUE SKY」リリース。 

10月 和田アキ子のシングル「」を作詞・作曲。

10 - 11月、ライブツアー“T-STAGE”(全8公演)


1998年

大阪梅田の商業施設HEP FIVEの空間モニュメント(巨大赤クジラ)をプロデュース。

2 - 3月 ライブツアー“DRAG-ON?The Legend of Dragon Slayers?”(全16公演)

3月21日 ファースト・アルバム『H』リリース。

8月 ライブツアー“サアカス少年團?NATSU NO YO NO YUME?”(全10公演)

12月 “1998 ART NUDE”を行う(全11公演)。1部がコンサート、2部がステージで絵を描くアートパフォーマンスという2部構成。


1999年

DoCoMoの携帯“K-TI”をデザイン。

長年憧れ続けていた芸術家フンデルトヴァッサーに会いに行き感銘を受ける。

2?4月 ライブツアー“TRANS ?時間紀行?”(全27公演)

8月 ライブツアー“EXPO ISHII 1999”(全6公演)

展覧会「昇展」開催。

鈴鹿8時間耐久ロードレースの総合プロデュースを務める。

12月 “1999 ART NUDE”を行う。(全11公演)


2000年

4?7月 ライブツアー“DRAGASIA ?Welcome to ASIAN DISCO?”(全21公演)

12月 “2000 ART NUDE”を行う。(全12公演)


2001年

ノートパソコン“T-NOTE”をデザインし、2001年度グッドデザイン賞を受賞。

3月?4月 展覧会「ART NUDE EXHIBITION」開催。

3?5月 ライブツアー“ZERO CITY -HAL- ”(全12公演)

9?11月 ライブツアー“ZERO CITY -AQI- ”(全13公演)

12月 オーケストラライブツアー“D-DREAM”(全4公演)


2002年

2 - 3月 “2002 ART NUDE”を行う。(全12公演)

宝塚歌劇団宙組初代トップ男役で歌手の姿月あさととユニット「MOON STONES」を結成。7月にLIVE&ACT「ツキノイシ・ケイカク」第一弾として“MOON”公演。(全4公演)

9月 - 11月 ライブツアー“NYLON CLUB ?LET'S GO CABARET?”(全16公演)

12月 展覧会「NUDE」開催。

アメリカ同時多発テロ事件に強いショックを受け、年末に『平和』をテーマとしたインスタレーション・イベント“GROUND ANGEL”を横浜赤レンガ倉庫にて開催。


2003年

2月 - 3月 ライブツアー“ISHYST”(全11公演)

6月 「チェンミン・二胡LIVE 2003“i love”」の総合演出プロデュースを務める。

7月 - 8月 石井竜也×姿月あさと・ツキノイシケイカク第二弾として“SUN”公演。3メニューで行う。(全29公演)

12月 ライブツアー“羽音”(全9公演)

年末に『平和』をテーマとしたインスタレーション・イベント“GROUND ANGEL”を横浜赤レンガ倉庫にて開催。


2004年

フォトジャーナリスト・広河隆一との対談本『子どもに伝えるイラク戦争』を出版。


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