しかし、チャールズ1世の専制政治を停止させようとする議会側と、戦費のための補助金が欲しい国王側の対立は深刻なものとなっていた。議会では庶民院の有力議員ジョン・ピムが各地から寄せられた専制の苦情を元にして2時間にもわたる演説を行い(「苦情のカタログ」と呼ばれる)、同調した庶民院は専制を改めない限り補助金を出さない姿勢を示した。チャールズ1世は貴族院を抱き込んで庶民院を懐柔しようとしたがかえって庶民院の態度は硬化、祈祷書を強制された側であるスコットランドへの議会の同情もあり国王との会議は決裂、4月29日にロードの強引な宗教政策も議会が攻撃するに及んで、チャールズ1世は5月5日に議会を解散、会期はわずか3週間だった。国王寄りの庶民院議員エドワード・ハイドは解散で体制支持の穏健派を敵に回すことを危惧し、ロードにチャールズ1世へ解散の撤回を助言することを求めたが却下され、5月11日には解散に怒った民衆が暴徒と化し、解散の首謀者とされたロードの邸宅(ランベス宮殿)を襲う事件が起きた[2][4]。
その後、戦費を得られなかったチャールズ1世はアイルランド議会の協力を得て軍を集めることとなったが、寡兵に過ぎなかった。また、その動きを察知した盟約軍はすぐに動いて両軍は激突し、盟約軍が圧勝した(8月28日、第2次主教戦争、ニューバーンの戦い)。そしてリポン条約でチャールズ1世に課せられたこの戦争の賠償金のために、11月3日に再び議会が召集されることとなる(1653年まで続いたので、これを長期議会と呼ぶ)[5]。
脚注^ 浜林、P75 - P81、今井、P180 - P187、塚田、P97 - P102、清水、P19 - P24。
^ a b 松村、P686。
^ 浜林、P87 - P89、今井、P187 - P189、塚田、P103 - P105、清水、P31 - P33。
^ 浜林、P89 - P91、今井、P191、塚田、P105 - P106、P124 - P126、P186 - P187、清水、P33。
^ 浜林、P91 - P92、今井、P192、塚田、P106 - P107、P126、清水、P33 - P34。
参考文献
浜林正夫『イギリス市民革命史』未來社、1959年。
今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。
塚田富治『近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人』みすず書房、2001年。
清水雅夫『王冠のないイギリス王 オリバー・クロムウェル―ピューリタン革命史』リーベル出版、2007年。
関連項目
清教徒革命
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