知的財産権
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なお、タイプフェイスを保護する条約として、タイプフェイスの保護及びその国際寄託に関するウィーン協定が作成されているが、締約国数の不足により発効していない。

歴史
知的財産権の始まり

古くは紀元前18世紀ごろから12世紀ごろにかけて、
ヒッタイトが、当時貴重であった鉄の製法(ノウハウ)を周辺民族に秘密にすることで優位を確保し、勢力を拡大した。このことをノウハウ管理の重要性を理解した知財戦略のはしりと見る見解がある[10]


近代的な知的財産権の制度としては、ルネサンス期イタリアのヴェネツィア共和国で誕生した特許制度が世界で最初の知的財産権制度であったと言われている[11]ガリレオがヴェネツィア公に懇願をし、その結果としてヴェネツィア共和国で、世界で最初の特許制度が公布されたと言われている。

知的財産政策(ヤングレポート)

1980年代の世界貿易は、先進国、アジア地域の高い経済成長につれて順調に推移した。日本は特に1980年代前半の円安期に輸出を伸ばし、1986年には世界シェアが10.5%になり、米国と並ぶまでになった。

しかし、日本による米国への集中豪雨的な輸出のため、米国の輸出は伸び悩み、世界輸出市場に占める米国のシェアは11%台で低迷。1980年代を通して見ると、米国では輸入が急増し、1984年には貿易赤字が1,000億ドルを超え、米国の産業競争力は著しく低下した。

そこで、共和党政権のロナルド・レーガン大統領は、1983年6月、ヒューレット・パッカード社のジョン・ヤング社長を委員長に迎え、学界、業界の代表者からなる「産業競争力についての大統領委員会」を設立した。ヤング委員長は、米国の競争力の低下を一年半にわたり広範に検討し、その結果を『地球規模の競争-新たな現実』と題する報告書として1985年1月25日に大統領に提出した。これが「ヤングレポート」として国際的に知られている報告書である。

報告の骨子は、「米国の技術力は依然として世界の最高水準にある」としたうえで、それが製品貿易に反映されないのは、「各国の知的財産の保護が不十分なためである」と分析し、その回復のために、プロパテント政策を推進することを提言した。この提言と同様な政策は、その後の大統領通商政策アクションプラン(1985年9月)や、アメリカ合衆国通商代表部(USTR)の知的財産政策(1986年4月)などにも見いだすことができる。
2018年より始まった米中貿易戦争

2010年代、中国では国内に進出する国外企業に対し、合弁先が最先端技術の知的財産権供与を強要するケースが目立ち始め、地方政府も同調するように許認可権を通じて圧力をかける例が報じられるようになった。2017年、アメリカは中国の知的財産権の扱いに対して通商法スーパー301条に基づく調査を始めるとともに[12]、通商代表部ライトハイザー代表が中国を国際的な貿易体制の脅威でと主張するなど摩擦が生じるようになった。中国側も反論を行ったが[13]、アメリカを納得させるまでに至らず、2018年、知的財産権はアメリカが中国からの幅広い輸入品に関税をかける米中貿易戦争のきっかけの一つとなっている[14]
日本における知的財産権
日本における知的財産権の歴史

1866年、
文久遣欧使節から帰国した福沢諭吉が『西洋事情』を著し、その中で西洋には「発明の免許(パテント)」「蔵版の免許(コピライト)」の制度があることを紹介した。日本に初めて特許権・著作権の考え方を紹介するものであったとされる[15]


1869年、明治政府が「出版条例」を制定した。出版社の出版権を保護する初の著作権法制であったが、出版物の取り締まり規制も同居した法律であった[16]


1871年、明治政府が「専売略規則」を制定した。初の特許法制である。


初代専売特許所所長(現在の特許庁長官に相当)であった高橋是清の尽力により、1884年には「商標条例」が、1885年には専売略規則に代わる「専売条例」が制定される[17]


1887年、明治政府が「版権条例」が制定され、著作権法制が初めて独立した法律により定められることとなった[16]


1894年までになされた不平等条約の改正において、工業所有権の保護に関するパリ条約ベルヌ条約への加盟が条件とされた[16]


1995年10月、国会は当時村山改造内閣村山富市首相、自社さ連立政権)の連立与党の共同提案に基づいて、科学技術基本法案を採択。日本が「キャッチアップの時代は終焉を迎え、フロントランナーの一員として、自ら未開の科学技術分野に挑戦し、創造性を最大限に発揮し、未来を切り開いて行かなければならない時機に差し掛かっている」として、「真に豊かな生活の実現のためには、科学技術創造立国を目指す」ことが必要であるとした。


1996年12月に「21世紀の知的財産権を考える懇談会」(座長:有馬朗人)が、特許庁で開催された。これは、米国の国家戦略としてのプロパテント政策の推進等、近年の急激な環境変化に対して、21世紀に向けた日本の知的財産権のあり方を明らかにする目的で開かれたもの。1997年4月に、『21世紀の知的財産権の目指す方向』が発表された。


2001年10月から、経済産業省において「産業競争力と知的財産を考える研究会」が開催され、2002年6月に報告書がまとめられた。
これらを受けて、2002年3月に当時の第1次小泉内閣(自公保連立政権)は、小泉純一郎総理主催の「知的財産戦略会議」を設置。同年7月に『知的財産戦略大綱』を発表し、政府として知的財産立国を目指し、知的財産政策を推進することが明確化された。同年12月に第1次小泉第1次改造内閣(自公保/保新連立政権)下で「知的財産基本法」が成立した。この知的財産基本法の施行に伴い、知的財産戦略本部、およびその事務局である知的財産戦略推進事務局が設置された。

1995年10月 - 連立与党の共同提案、科学技術基本法案採択

1996年12月 - 「21世紀の知的財産権を考える懇談会(特許庁)」(座長:有馬朗人)

1999年10月 - 産業活力再生特別措置法が成立(日本版バイドール法)

2000年 5月 - 知的財産制度に関する議員連盟等合同会議・中間報告書発表

2001年12月 - 知的財産権の保護強化で自民党が国家戦略ビジョン

2002年 2月 - 第154回国会・小泉内閣総理大臣施政方針演説「必要な知的財産政策を推進」

2002年 2月 - 首相直属「知的財産戦略会議」設立

2002年 5月 - 「産業競争力と知的財産を考える研究会」最終報告書(経済産業省)

2002年 7月 - 「知的財産戦略大綱」を正式決定・知的財産基本法準備室設置

2002年10月 - 知的財産基本法案・閣議決定・経済産業委員会で審議決定(政府与党)

2002年11月 - 知的財産基本法成立

2003年 3月 - 知的財産基本法施行・知的財産戦略本部発足

2003年 4月 - 関税定率法改正・知的財産権侵害品の取締強化

2004年 6月 - 知的財産高等裁判所設置法裁判所法等の一部を改正する法律成立

2005年 4月 - 知的財産高等裁判所設立

日本企業における知的財産戦略
日本における知的財産戦略の理論化

日本の知財実務においては、企業の知的財産戦略を理論化しようという試みが続けられている。以下は特許分野におけるその一例である。
必須特許ポートフォリオ論

必須特許、すなわち特定分野において企業の事業活動の根幹となる特許(それを有しなければ撤退リスクを生じる重要な特許)の保有関係を分析する理論である。

必須特許が市場のプレーヤーの誰に保有されているかを分析することで、当該市場への参入可能性や参入戦略の方向性(自社開発か、特許買収か、誰かとパートナーシップを組むかなど)を検討することができる。また、時間軸に着目して将来のマーケットシフトに合わせた必須特許の検討も行う[18]
二軸マーケティング論

知財投資をすべき分野を画定するための理論である。将来的な市場規模の大小を第一軸、先行特許の多寡を第二軸として、定量的に開発投資のテーマを決定する。

先行特許がすでに相当数存在する技術に正面から投資をしても、すでに競争が激しく、必須特許を得られる可能性は低い。


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