国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。 10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)はマアムーン時代から続くムウタズィラ学派擁護政策を放棄した。これはムウタズィラ派の極端な合理主義・思弁主義的思想に反発する形で擡頭して来た伝統主義者、いわゆる「ハディースの徒(アフル・アル=ハディース ahl al-?ad?th )」に配慮したものであった。「ハディースの徒」と呼ばれた伝統主義の人々の立場は、おもにイスラーム法の法源は第1にはクルアーンであり、預言者ムハンマドにまつわるハディースはこれに次ぐものとしていた。アッバース朝初期の神学論争ではクルアーンやハディースで語られている「唯一なる神アッラーの絶対性」を巡る議論が交わされていたが、「ハディースの徒」をはじめとする伝統主義の考えでは、「クルアーン創造論」を巡る論争のようにムウタズィラ派にみられるようなギリシア・ローマ哲学流の「合理主義」的な経典解釈ではクルアーンやハディースで語られている「アッラーの絶対性」を損ねるものと受け止められ、一般的なムスリム信徒たちの宗教的な心情とも遊離しつつあった[4]。また、ムウタズィラ派系の人々が使用していたアラビア語の術語は、従来のアラビア語では見られないようなギリシア語的な翻訳語を多用する場合が多く、ハディース学・伝承学の分野で必須の伝統的なアラビア語文法学を修めた伝統主義的な学識者にとって、ムウタズィラ派の人々の論説で使われている言い回しは「アラビア語らしからぬ新奇な表現」と映った[5]。ムタワッキルの時代はサーマッラーに遷都したままであり、カリフからの庇護を失った「知恵の館」も翻訳活動においてアラビア語を優先するそのクルアーンやハディースの解釈には伝統的なアラビア語学の知識が不可欠であったのと以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。 1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダードが陥落した時に、知恵の館もその膨大な文書と共に灰燼に帰した。 スタッフの多くは、シリアのネストリウス派や非カルケドン派(合性論派)のキリスト教徒、ハッラーン出身のサービア教徒であった。 ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエス・キリストは神の属性のみを持つ」という思想(単性論:正統派とされた側からは合性論もその一種と見なされた)と、その逆に「キリストの位格は神格と人格との2つの位格に分離される」という思想(ネストリウス派)を異端としてしまった。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。 翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。 古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統が、イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。 ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフやマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語やギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになった(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。 その後、12世紀を最後に、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。
衰退
スタッフ
ヤハヤー・イブン=マーサワイヒ
フナイン
クスター・イブン=ルーカー - 翻訳家。キリスト教徒
影響
その後
脚注[脚注の使い方]^ アル・ハリーリー 『マカーマート 中世アラブの語り物(1)』 堀内勝訳、平凡社〈東洋文庫 780〉、2008年、99-125頁
^ a b 金子 光茂 (2000), ⇒“西欧文明の基礎を築いたイスラーム”, 大分大学教育福祉科学部研究紀要 22 (1): 123, ⇒http://ir.lib.oita-u.ac.jp/dspace/handle/123456789/3623 2009年10月27日閲覧。
^ 谷崎 秋彦 (2006), “翻訳の運命と目的地 ベンヤミンの翻訳論”