矢沢永吉
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注釈[脚注の使い方]^ 1978年10月頃、TBSクイズ番組ベルトクイズQ&Q』で、「テレビの歌番組に、まだ一度も登場したことのない有名なロック歌手。さて、だれでしょう」答え「矢沢永吉」という問題が出された[18]
^ 当時、矢沢永吉はファンにとって絶対的なカリスマであり、そうでない者にとっては滅多にテレビに出ないミステリアスな存在だった[17]。当時の雑誌インタビューでは「歌番組ィーッ?どっこのチャンネルひねっても同じ顔ばかり並んでからに賄賂もらってるのか、プロダクションから金ころがしてんのか知らんけど。矢沢のシングルが1位になったからって何で出なくちゃならんの。誤解しないように言っとくけど、テレビ拒否じゃないの。いい番組なら、こっちから頼んででも出たいし、実際出たこともある」「ソロシンガーになって売れなきゃハナもひっかけられないこの世界で自分の道を切り拓いてきた。その中で得た三つの宝、レコード制作、ナマのステージ、そして矢沢ファミリー。あのテの番組にハイ、そうですかって出てしまえば、俺がこの数年間やってきたことは、みんなウソになっちゃうわけョ」などと話している[22]。「時間よ止まれ」が大ヒット中の1978年6月にフジテレビの『ザ・ポップ』に出演して「鎖を引きちぎれ」など6曲歌った他、同年11月に日本テレビが矢沢の特番を放送した[23]
^ 1970年代後半は仲のよかった『吉田拓郎のセイ!ヤング』に1979年7月7日にゲスト出演した[25]
^ 矢沢はキャロル時代からテレビに出なかったわけではないが、歌番組でもない、それもNHKの教育番組で45分もインタビューに答えるというのは、おおげさでなく事件だった[17]。やり手のディレクターが、1年以上にわたる出演交渉の末、矢沢をテレビに引っ張り出した[19][17][26]。自分のことを語る機会など無かった矢沢が、張りつめた雰囲気の中、インタビューに応じる。今も語り継がれる名言が次々と飛び出した本番組は、記憶に残るテレビ史の名場面となった[17][26]。この番組が伝説になった理由の一つが、インタビューを受けながらスタジオでの矢沢の喫煙[17]。今日では勿論有り得ないが、矢沢は番組中、切らすことなくタバコを吸い続けた[17]。NHKに出ようが、お行儀よくなることないその姿に見る者は痺れた[17]。実際の放送は45分だが[26]、収録そのものは倍の1時間半だった[17]。レギュラー司会者だった中部博は「キャロル時代から矢沢さんは好きだった。音楽だけじゃなくその言動も含めて興味はあった。楽曲作りからステージまで、すごいこだわりを持っている人だという噂は聞いていたから、相当アクの強い人だろうなと覚悟はしていたけどね(笑)。事前の打ち合わせは一切なしで、収録の始まる前に挨拶しただけです。質問しちゃいけない項目も無かった。収録後も『あそこは使わないでくれ』といった注文はなかったと聞きました。相手の言いたいことだけ話させて『ありがとうございました』じゃ面白くもなんともないと思っていました。僕の質問は彼にとって想定内だったと思うよ。受け答えの際、苦笑い浮かべたりしているけど、カメラにどう撮られているかちゃんと考えていたと思う」等と話した[17]。中部は高校生の時からリベラル政治運動に参加した[17]。このインタビューが伝説と化した最大の理由は、中部が躊躇なく際どい質問を矢沢にぶつけ、逡巡しながら言葉を選ぶ矢沢の姿だった[17]。中部はこのインタビュー以降、一度も矢沢に会っていないという。ただ一度きりの邂逅だった[17]増淵健は「めったにテレビに出ないロックのスーパースターを引っ張り出した担当者の得意そうな顔が目に浮かぶ。歌が4曲、矢沢を主人公にしたドキュメンタリー映画が公開日付きで紹介される。矢沢をテレビに出したいばかりに公共放送の矜持を捨て、特定個人に奉仕したNHK。インタビューに答える矢沢も奇態であった。自分自身を『矢沢』と呼び、『わかります?』と聞き手に確認を求めながら話す。よくいえば、ナイーブ、ありていに言ってマンガ的。そして分かりにくい。分かったのは、矢沢がソロ歌手になってまもなくのコンサートを起爆剤にして『ビッグ』になったことだった。人影がまばらな客席に向かって『こんなに才能があるオレ』について訴えた彼は、二年後、同じ会場を超満員にして『オトシマエ』をつけたそうな。『オトシマエ』などという辞書にもない言葉を"教育テレビが認めていたとは意外である」などと評した[20]
^ 連続ドラマ主演を渋ったが、プロデューサーの遠藤環に「矢沢さん、怖いんですか?」と言われ、「何にも怖くないよ!じゃあやってやるよ」と出演が決まった[34][35]
^ 矢沢がギターを学んだ山中ジャズスクールは、当時のまま、現在も広島市に現存している。建物の外観も当時と変わらない[60][64]
^ 『成りあがり』には、『週刊平凡』と記載。
^ タオルはソロになってから、ステージで動き回り、汗を大量にかくので、途中でスタッフに「ちょっとタオルくれ」って言ったのが始まり。
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