瞑想
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このことが、今日の一般での瞑想の実践や研究に大きな影響を与えていると考えられており、西洋で瞑想は実利的な健康法、セラピーとして広く活用されている[18]。1970年代には、科学者を志す若者たちが東南アジアやインドで瞑想の修行をするようになり、アメリカに戻って瞑想研究や普及活動をした[17]。インド人導師バグワン・シュリ・ラジニーシは、同時代にアメリカで活動し現代人向けに多くの瞑想法を開発したが、瞑想の最終的な目的は絶えず観照者にとどまる事であり[19]、気づきを生の本質とすることが瞑想であると語った[19]。80年代になると、徐々に科学的研究が発表され、瞑想する環境も整い、瞑想は広まっていった[17]

安藤治は、瞑想はセラピーと言われることもあるが、精神的な病の治療を目指す精神療法ではなく、自己超越を促進する方法のひとつであると述べている[20]。治療する病気や患者を適切に選べば、瞑想の副次的な効果を臨床において補助的に用いることは大いに有用である可能性がある[20]。精神療法が大衆化し、瞑想がセラピーの場に取り入れられたことで、精神療法・瞑想の語は、元来の意味よりやや大雑把に使われるようになった[18]

ヒューマンポテンシャル運動を引き継いだニューエイジでは、悪を幻影と見なして障害やネガティブ性を完全に否定し、人間の脳の無限の可能性や脳と宇宙エネルギーとの関係が信じられ、ヨーガ、レイキ太極拳自己啓発セミナー、禅、合気道超越瞑想などが霊的な成長をサポートするセラピーとして行われた[21]超能力を覚醒させることを目指すシルバメソッド等、自己啓発セミナーでも瞑想が利用されている[22]

西洋では、瞑想による血圧降下作用などの特殊な生理学的効果が注目され、自己コントロールやリラクセーション法として研究されるようになった[11]

アメリカでは、医学者のジョン・カバット・ジンが、仏教で悟りに至るための実践の一つで、今この瞬間に注意深くあり、判断せずにそれを受け入れるというマインドフルネス瞑想を医療化し、マインドフルネスストレス低減法を考案して慢性疼痛の患者の治療に活用し、その適応範囲はうつ病、不安症、摂食障害、不眠症などの精神疾患へと広がっていった[17]。瞑想を科学的研究の対象とするために、宗教的側面を整理してそぎ落とし、定義し直したことで、瞑想研究は飛躍的に進み[23]、2000年以降には、脳科学者の瞑想研究も増加し、瞑想熟練者でなくともマインドフルネス瞑想のトレーニングで脳の活動が変化するという科学的知見が示され大きな衝撃を与え、2000年代にはネットを通じてマインドフルネスという言葉が広まっていった[17]。教育や福祉、職場のメンタルヘルスの向上のためにも用いられるようになり、アメリカでは2010年以降、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスのワークショップが企業内外で開催され、GoogleFacebook で導入されたことでも注目を集めた[17]。感情のコントロールや職場の満足感の向上への効果が示され、2014年には『TIME』誌で特集も組まれた[17]。世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離して調整されており、都合よく切り詰められたマインドフルネスの「去勢」がもたらす問題を指摘する声もある[24]

アメリカの自己心理学者クリスティン・ネフ(英語版)は、社会的な競争に勝つことで自尊感情を高めることが幸福につながるという考えに疑問を呈し、仏教の思想に基づいてセルフ・コンパッション(英語版)(自分への慈悲、思いやり、優しさ)[注釈 2]の研究を行い、自尊感情が高くなくてもセルフ・コンパッションが高い人は、自分を受け入れ、幸福を感じ、不安や抑うつが低いという研究結果を示した[17]。ネフは、セルフ・コンパッションを、マインドフルネスを包含し相補する概念として提示しており、ジョン・カバット・ジンやマインドフルネス認知療法の創始者マーク・ウィリアムズも「マインドフルネスはコンパッション(慈悲)を含んでいる」と述べている[25]。しかし、必ずマインドフルネスがコンパッション(慈悲)を含むわけではなく、アメリカでは、軍事訓練にマインドフルネスを用いて動じない兵士を作る試みがあり、瞑想が軍事利用されている[25][24]
「瞑想」「冥想」という表現

瞑想に関しては複数の言語間での翻訳の行き来等に伴う表現の混乱がある。明治・大正の日本人が脱亜入欧・西洋近代化を目指し、仏教などの既存の日本の文化のしがらみを断とうと、適切な訳語であっても仏教関連用語を避けたことがそもそもの原因である[26]。哲学者の井上哲次郎は、欧米の思想の翻訳の際に仏教関連用語を意図的に避けている[26]。彼の決定が与えた影響は極めて大きかった[26]。井上は: meditationの訳語に「沈思・冥想」を、: contemplationの訳語に「熟考・沈思・冥想・深察」などを当てているが、この「冥想」という語は、中国の思想の世界や正統哲学精神史の中で、あまり一般的ではない用語だったようであり、日本人にとってなじみのない言葉だった[26]。こうした訳語の選択により、宗教行為である meditation や contemplation の訳語から、宗教性や精神性が希薄になるという事態が起こった[26]

近代になると、ヨーロッパで仏教が研究されるようになり、チベット仏教の実修、ヨーガなどが、meditation、contemplation と理解され、翻訳された[27]。それらを紹介した欧米の書物がさらに邦訳される際(再輸入される際)、元の仏教用語に相当する日本語ではなく、「冥想」「瞑想」と訳されたものも少なくなく、仏教の訳語であっても仏教用語が用いられないという錯綜した事態となった。「瞑想」の英訳には、meditation と contemplation のどちらかが当てられている[24]

「冥想」という言葉は、漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味であり、道教に由来する[27]。根源的な真理である大道と一体化するための方法として重視された[27]。「冥」は「場所に手で幕をかける」「死者の顔を覆う布」の意味であり、どちらも覆われて見えない様子、暗い様子を表し、「奥深いところ」「目に見えない神仏の世界」「深遠な道理」などの意味が派生した。一方「瞑」は「目をつぶる」「死ぬ」などの意味で、死者のように目をつぶるという意味である[26]。よって、宗教的実践の訳語としては、「瞑想」では深い精神性を表すことができないため、適しておらず、「冥想」のほうが適切であろうと思われる[26]。宗教的実践を「瞑想」と訳すと、翻訳元の意味を正確に理解することが難しくなる。

スペイン語: meditacion、英語: meditation という言葉はラテン語: meditatio に由来している。ローマ時代の meditatio は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していた[28]

その後、西ヨーロッパにおいてはもっぱらキリスト教カトリックが発展した。私的な祈りはその形態から、定型の祈りの言葉を声に出して唱える口祷と、心の中で念じる祈り念祷(oratio mentis)に分けられ、念祷はさらに思弁的な祈りである黙想(meditacion、meditation)と、言葉を介さずに真理を直接に「観る」非思弁的な神秘体験観想スペイン語: contemplacion、英語: contemplation)に分けられた[29]。キリスト教カトリックの祈りにおいて、観想が最も高度な段階である[29]。日本では meditatio を「黙想」と訳し、プロテスタント教会では念祷(oratio mentis)を「瞑想」と訳すようである[9]。冥想・冥想より意味が限定された仏教の訳語を用いるなら、meditation は凝念、contemplation は静慮または三昧が適当であろうと思われる[26]

伝統的な仏教では、瞑想という語はほとんど用いられてない[27]。仏教用語のパーリ語の bh?van?(バーヴァナー)は修習、修行と訳されており、これが瞑想に当たる[24][27]。修行とは、「身体の訓練を通じて『悟り』を目指すこと」を意味する[6]


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