眠れる美女
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『眠れる美女』は、『古都』や『千羽鶴』などの伝統的な日本の美を基調とした作品とはやや趣が異なる、前衛的幻想的な作風で、川端後期を代表する作品として総体的に評価が高い[10][3]。また「老人の性」を描いたものとして、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』とも比較されることが多い[11][12][13]

海外でも注目されており、コロンビアノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスは、この作品に触発されて、エッセイ『眠れる美女の飛行』(1982年)を書き、長編小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』(2004年)を書いている[14]。また、台湾の作家・李昂 (小説家)(中国語版)が『眠れる美男』というオマージュ作品を書いており、日本語訳が2020年(令和2年)に出版されている[15]

江藤淳は、作品に漂う「異常にエロティックな雰囲気」は「ほとんど息苦しい位である」とし[11]、同じ老人の官能をテーマにした谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』に比して『眠れる美女』は明らかに「非小説的な世界」の上に作り上げられ、匂いや触覚が過去を現前させる点はプルーストの『失われた時を求めて』のマドレーヌの挿話を想起させ、また前衛的でもあるとしつつも、そこにはプルーストのような「『見出された時』を求めようとする意志」が欠け、むしろ「意志の放棄によって成立しているという点で、これはほとんど反・小説的な作品である」と評している[11]。そして作品から感じられる「美的効果」に近いものを「リズムという要素が能う限り稀弱になった十二音音楽というようなもの」と江藤は表現し[11]、『山の音』や『みづうみ』同様に「老人の女体への憧憬」がもっぱら「感覚のゆらぎ」として歌われる『眠れる美女』ではその感覚の「衰弱と荒廃」を「美に仕立てあげようとする詭計」が辛くも功を奏しているとしている[11]。この作品のエロティシズムは、生命からではなく、死の感覚をもてあそぶところから生れている。そういえば「眠れる美女」という童話があったが、川端氏の作品は、人工が最も根源的な生の秘密をあばき出しているという意味で、一種の裏返された童話だともいえるのである。 ? 江藤淳「文芸時評」[11]

エドワード・G・サイデンステッカー三島由紀夫は『眠れる美女』を「文句なしに傑作」と呼び、この作評がその後の文芸論評で多く引用されることが多い[16]。三島は、「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である」、「デカダン気取りの大正文学など遠く及ばぬ真の頽廃が横溢してゐる」と高く評価をし[1]、川端の中編のうち、最も「構造布置」の整った作品で、後期を代表するものだとしている[2]

そして三島は、「秘密クラブの密室に終始する」という作品世界自体に、「精神の閉塞状態」が象徴され、川端の「地獄」に慄然としたとしつつも、そうした極端な形で表現されてはいるが、その主題は川端文学全般に通底し、『禽獣』の「愛の形」も、以前から見られた「少女嗜好」も、『眠れる美女』に「帰着すべきもの」だったとし[2]、川端文学では処女小鳥も、自らは語り出さず、「絶対に受身の存在の純粋さ」を帯びていると説明しながら、以下のようにそのエロスの構造を解説している[2]。精神的交流によつてエロティシズムが減退するのは、多少とも会話が交されるとき、そこには主体が出現するからである。到達不可能なものをたえず求めてゐるエロティシズムの論理が、対象の内面へ入つてゆくよりも、対象の肉体の肌のところできつぱり止まらうと意志するのは面白いことだ。真のエロティシズムにとつては、内面よりも外面のはうが、はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである。処女膜とは、かくてエロティシズムにとつては、もつとも神秘的な「外面」の象徴であつて、それは決して女性の内面には属さない。川端文学においては、かくて、もつともエロティックなものは処女であり、しかも眠つてゐて、言葉を発せず、そこに一糸まとはず横たはつてゐながら、水平線のやうに永久に到達不可能な存在である。「眠れる美女」たちは、かういふ欲求の論理的帰結なのだ。 ? 三島由紀夫「解説」(『日本の文学38 川端康成集』)[2]

そしてこういった「実在観念との一致を企むところに陶酔を見出してゐる」状態は、性欲が「純粋性慾」に止まり、「相互の感応」を前提とする「愛」から最も遠いため、ローマ法王庁カトリック教会)が最も嫌う「邪悪」となるはずだが、その概念に反し、最後に宿の女が、「この家には、悪はありません」と断言することで、川端の考える〈悪〉が何であるかが「朧ろげに泛ぶ」と三島は考察し[1]、その川端的概念に従い、「眠れる美女の世界は、無力感によつて悪から隔てられてゐる」と考えれば、川端の規定する〈悪〉が、「活力が対象を愛するあまり滅ぼし殺すやうな悪」「すべての人間的なるものの別名」であることが判り[1]、これと「反対方向の世界」に魅せられ、川端と同じくらいの厭世家の作家が、『カルメン』の作者メリメであるとして、その〈悪〉の意味の相関関係を指摘している[1]

上田渡は、江口が〈最初の女は母だ〉とひらめく場面に触れ、少年・江口が瀕死の母の胸をなでたとたんに、母が多量の血を吐き絶命したことが罪悪感として江口老人の潜在意識の残ったとし[17]、「性的回想が母に還元されていき、〈最初の女は母だ〉という結論に到達した時、それは母の死に直結していく」と解説している[17]。そして、江口が現実に母と近親相姦の関係を持ったわけでないが、死の床の母の胸をなでた時の「江口の心理状態」は「母を犯した」ことと同義であるとしつつ[17]、江口が〈右と左との娘のちぶさにたなごころをおいた〉時に母の胸をなでたことを思い出すのは、「胸にふれる行為が娘と母を結びつけている」と考察している[17]

春木奈美子は、江口が母の夢の中で見た赤いダリアのような花に囲まれた家や、深紅のカーテンに囲まれた部屋は、「母胎内の暗喩」だとし[7]、「世界と私との接続点、の起点が、女性の身体というトポスを間借りして現れる」と考察している[7]。最後の女として娘の処女を犯そうと夢想し、最初の女としての母のイマージュが回帰した後に運ばれてくる夢は、やはり血の赤によって破られる。眠る美女が駆り立てる愛撫の強迫と、死に行く母に無言で呼びかけられる強迫。死が性の衣を脱いで、死の床で無言に呼びかける母と、今宵眠れる美女の家で無言に愛撫を誘う娘とが、ここで交わる。
死という受け取りきれない贈与は、夢の中で形を変えて反復される。応答不可能な限り、この故なき責めは止むことはない。はじまりを可能にした死の痕跡は、拭い去されることはない。女主人によって跡形もなく運びだされる娘の遺体、そんな娘の一点の染みも残さぬ消失も、江口のうえに重くのしかかることになる。 ? 春木奈美子「〈告白〉の現代―川端康成の『眠れる美女』を通して―」[7]

そして春木は、「性の中に漂う死の匂い」に惹きつけられる江口が、最後には、死に取り残されることを鑑み、「死は、誰ひとり追いついてくる者もいないほの暗し、地帯」であり、「われわれを惹きつけると同時に跳ね除けるもの」だと解説しつつ[7]、「深紅のビロードのカーテンの部屋にも、赤い花の家にも、歓待はない」としている[7]

深澤晴美は、佐川一政が画家・ギュスターヴ・クールベの『眠り』(白い娘と黒い娘が全裸で抱き合っている絵)と『眠れる美女』との関連に言及していたことに触れ[18]、クールベが「一個の眼」と評され、「夢の世界へ、あるいは、世界を満たす生命へと開かれている」只中の眠る女がクールベの重要なモチーフであること(阿部良雄の評)を鑑み[19]、「赤い帷に蔽われて洞穴めいた空間の中」で目覚める娘が、まだ寝ている娘を起そうとしている『目醒め』や[20]、『まどろむ糸つむぎ女』『死女の化粧』など、クールベと川端の主題との共通性を指摘しながら[10]、『片腕』論で前衛画家との関連が論じられたように[21]、『眠れる美女』と絵画との関係の研究展望を示唆している[10][注釈 1]

瀧田夏樹は、「枯れはてた老人に化けて、禁断の場所に潜入し、性の冒険を試みる江口老人のあり方」には、三島由紀夫の『禁色』の主人公・檜俊輔の「耽美的執念」を思わせ、江口の「“由夫”という名もなにか気にかかる」とし[22]、『禁色』が発表された当時、川端が〈禁色は驚くべき作品です〉と三島に伝え、〈しかし西洋へ行かれればまた新しい世界がひらけると思ひます〉と勧めている手紙に触れて[23]、この〈西洋〉で、「川端は何を云おうとしたのだろうか」と述べている[22]


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