釈迦は当初呪術的行為を禁止したとされるが[注 17]、教団が拡張するにつれ、日常生活の中に習慣づけられている呪文を厳禁することが難儀になったとともに、広く民衆に布教するための方便として旧来の信仰と調和しこれを善導するために、仏教修行の妨げにならない限りは、世俗の呪文を用いることが容認された[15][16]。一般民衆とくに農村部への布教活動を展開していく過程で、教団内では呪文が多く用いられるようになっていたが、その中でも護身の呪文として、パーリ語で「パリッタ(paritta)」(護呪)といわれる経が知られている[注 18]。呪術的な「パリッタ」の一例として、比丘が毒蛇を避けるための『カンダ・スッタ(蘊経/khanda sutta)』が挙げられる。これは、蛇を含むすべての生類に慈悲を示し、その慈悲の力で毒蛇に咬まれることを避けようとする護身・除災を目的とした呪文である[注 19]。『カンダ・スッタ』は、こうした古くからあった蛇除けの習俗が仏教教団内に持ち込まれたものであり、これが発展して後の『孔雀王呪経
』の成立に繋がったと考えられている。[注 20]。大乗仏教興起以前に唱えられていた呪文は、バラモン教に由来する護身の呪文や「パリッタ」等釈迦によって説かれた経典を唱えて障害を防ごうとするものであった。パリッタの護身呪はその後、南伝系・北伝系を問わず仏教経典に呪文として入りこみ、やがて個々の病気平癒の効果をもたらす呪文が用いられるようになり、後に真言へと成長していく[注 21][注 22]。 紀元前後に、アーリヤ人の宗教であるバラモン教と先住民の信仰との融合が起こりヒンドゥー教が形成された。神にマントラを捧げれば救済されるというヒンドゥー教の単純明瞭で実践しやすい教え[注 23] は民衆の支持を受け隆盛し、仏教を圧倒する勢いを示すようになった。初期仏教教団は指導者も比丘も大半がバラモン階級の出身であり[注 24]、幼い時からバラモン教の教えの中で生活していた彼らにとって、ヒンドゥー教の教義や多神教の概念は受け入れやすいものであった。多神教であるヒンドゥー教の影響を受けて、あるいはヒンドゥー教に対抗するために[注 25]、仏尊の複数化すなわち如来や菩薩等の多数の諸仏の信仰が生まれ、呪術や儀礼を重視するヒンドゥー教の教理が仏教の中に浸透し、マントラを唱えることで仏教の最終目的である成仏が可能であるとする大乗仏教として発展していった[注 26]。 2世紀以降にはパリッタ的な呪文を中心とする単独の除災経典が現れた。『般若経』、『法華経』、『華厳経』等には「陀羅尼」、「明呪」、「真言」等の呪文が説かれており、これらは瞑想における精神統一の手段として念誦されたり、悟りの智慧の表現として用いたり、あるいは『ヴェーダ』におけるマントラのような呪術的な目的で読誦されるなど、用途は様々である。 バラモン教やヒンドゥー教の呪術的な要素が取り入れられた初期密教では、『ヴェーダ』の形式を模した様々な仏教特有の呪文が作られた。当時は特に体系化されたものはなく、釈迦の説いた諸経典に呪文が説かれており、諸仏・過去七仏・弥勒をはじめとする無数の菩薩や、インドラ・ヤマ・ヴァルナ・ソーマなど『ヴェーダ』に登場する神々に帰依する呪文を唱えることで、守護・安寧・病患滅除などの現世利益を心願成就するものであった[注 27][注 28]。 3世紀に成立したと考えられる『持句神呪経』や4世紀前半に成立した『仏説大金色孔雀王呪経 非アーリヤ部族及び低力ースト種族を仏教に同化していく過程で、彼らの女性もしくは地母神への信仰を採り入れたため、非アーリヤ部族や低力ースト種族の信仰する神や農業女神の名[注 31] が含まれるようになった。真言、陀羅尼に含まれるいくつかの語が語義不明なのは、以上のような歴史的背景があるためであると考えられている。 ヒンドゥー教の興隆に対抗するために体系化された中期密教では、釈迦が説法する形式の大乗経典とは異なる大日如来または大毘盧遮那仏 後期密教では性的儀礼などの特異な内容が含まれるため、中国本土の倫理観と相容れず、日本にも伝わらなかった。インドでの仏教滅亡後はチベット仏教にその名残をとどめている。 中国では仏教の伝播とともに道教の呪禁の法と融合し、相互に影響し合った。真言は三密(身・口・意)の中の口密に相当し、極めて重要な密教の実践要素となった。 真言は、日本では真言宗、天台宗、修験道、禅宗等で幅広く用いられる一方、最大勢力である浄土真宗では念仏を重視するため用いない。 真言や陀羅尼の多くは、呪句の前に「帰命句」と呪句の終末に「成就句」が加わるが、帰命句と成就句は存否一定しない。
大乗興起
初期密教
中期密教
後期密教
中国密教
日本密教
チベット密教が望まれています。
ネパール密教が望まれています。
構成