真言宗
[Wikipedia|▼Menu]
真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。

空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想経典も真言密教に包摂されることを説いた。天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する[1]。教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。
歴史
立教開宗.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}金剛峯寺、主殿(和歌山県高野町)東寺、金堂(京都府京都市)

平安時代初期の大同元年(806年)、空海が中国)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。弘仁14年(823年)には、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。同年、東寺に対して「真言宗の定額僧五十口を置き、他宗の僧の雑住を禁じる」旨の官符を賜った。また、淳和天皇に「真言宗所学経律論目録」を作り、献上した。
空海入定後

空海は入定に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱した。

教王護国寺実慧、金剛峯寺は真然神護寺真済安祥寺恵運寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺聖宝円成寺益信などがあり、これらの寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。後に、東寺長者が真言宗の最高権威者とする制度が確立する。
東寺と高野山(本末争い)

観賢東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、教王護国寺東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立。金剛峯寺は本末争いに負け、一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。

高野山は落雷により伽藍・諸堂を焼失したり、国司による押妨などにより衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族摂関家公家が高野山への登山が続いた。

その後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、高野山は財政においても安定していった。
覚鑁と新義派教学

宗団は、師資相承を重視するため、事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いにより分派していった。ただし、教学(教義)そのものは空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。

11世紀末覚鑁(興教大師)は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。

1290年正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。

徳川家康の保護を受け、1601年慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院京都・東山七条に再建した。のちに真言宗智山派の総本山となった。
古義派教学の振興

南北朝時代に東寺の僧、杲宝・賢宝(げんぼう)らが東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。高野山では「応永の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院宥快が而二門(ににもん)の教学、無量壽院長覚が不二門の教学を振興させた。
江戸幕府による統制と戒律への関心

江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じ、1604年慶長14年)に関東真言宗古義法度が出された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef