凡例真田 昌幸
真田昌幸像[注釈 1](信濃真田家13代当主・幸正所蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文16年(1547年)?
死没慶長16年6月4日(1611年7月13日)
改名真田源五郎(幼名)→武藤喜兵衛→真田昌幸
別名通称:喜兵衛
戒名長谷寺殿一翁千雪大居士
一翁閑雪大居士
墓所真田山長国寺(長野県長野市)
真田山長谷寺(長野県上田市)
善名称院(和歌山県九度山町)
官位従五位下、安房守
主君武田信玄→勝頼→織田信長→北条氏直→(徳川家康)→上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼
氏族真田氏(自称滋野氏)→源姓武藤氏→真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院[1]
養父:武藤三郎左衛門尉
兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹(加津野昌春)、金井高勝、清鏡?
妻正室:山手殿(寒松院殿)[注釈 2]
子信之、信繁(幸村)、信勝、昌親、村松殿(小山田茂誠室)、清寿院(真田幸政室)、娘(鎌原重春室)、清陽院(保科正光室)、趙州院(宇多頼次
甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱(幸隆)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将としてよく知られるようになった。
子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)らがいる。 天文16年(1547年)[注釈 3]、真田幸綱(真田幸隆)の三男として生まれる[4][3]。生誕月日は不明[4]。幼名は源五郎[5]。 真田昌幸は三男であり、同母兄に真田信綱・真田昌輝がいたため、生まれた時点では真田氏の家督相続の権利は無かった。 天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった[5][6]。なお、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によれば、この時の奥近習衆は昌幸の他に金丸平八郎、曽根与一 真田昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている[注釈 4]。
生涯
出自
武田信玄の時代
武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ