真田信繁
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^ 『仙台真田系譜』では元亀元年2月2日生とする。『仙台真田系譜』『武辺咄聞書』は共に享年46としている[3]
^ 初版は万年頼方・二階堂行憲の著。様々な版があり細部が異なる。講談の種本でもある[23]
^ 後者は講談や立川文庫で用いられたものである。
^ 厳密には姉の村松殿と信繁の生母に関しての記録はない[31]。村松殿・信幸・信繁を同腹とするのが通説。ただし村松殿の母には遠山右馬允の娘とする説もあり[32]、信幸・信繁が同腹、長姉の村松殿は異腹とする説もある。
^ 長野県立歴史館編著『たたかう人びと?戦争と平和? 信濃の風土と歴史11』長野県立歴史館、2005年。
^ 現在の和歌山県伊都郡九度山町。近くに歴史資料館九度山・真田ミュージアムがある。配所であった真田庵は同町の善名称院であり、九度山は高野山の表参道口にあたる場所の地名であって、山があるわけではない。
^ 「真好白」「真好白信繁」などと署名した木村綱守や河原左京などに宛てた書状が現存している。
^ 『本光国師日記』には、信繁の大坂入城を以心崇伝が書状で家康側近の本多正純に知らせたことが記されている。『高野春秋』は、大助と共に入城したことが記されると共に、九度山脱出時の信繁の直卒人数を記している。『高野春秋』は、信繁の大坂入城時の引人数、または入城後の信繁の下に集まった直卒人数については300人と記すものの、『真田家譜』は150人、『真武内伝』は130人との注記を記す。また、信繁が信州・上田の旧臣たちに参戦を呼びかけたことも記されている
^ 『大坂御陣覚書』。5月7日、秀頼は本丸桜門まで出陣したが、その時、真田隊を含む前線諸部隊壊滅の報がもたらされ、それ以上の出陣は中止となった
^ この作戦立案を踏まえて大野治房が発出した“大野主馬軍令状”(福山壽久氏所蔵文書)には、豊臣方の作戦や毛利隊の早期開戦等を考証するための、より確かで希少な史料であるため下掲する。重而申遣候、敵押寄候共、ちゃうす山岡山より、主馬人数出シ候ハゝ、かならずかならず大事ニて候間、此段侍共ニ能々申付、法度ちかへ候ハゝ、則成敗可申付候、昨日之かせんも、餘ニあし長ニ出候て、不覚取候間、今日合戦一大事ニ候、主馬一人之手柄ニても惣様之まけニなり候へハ、せんなく候間、軍法堅可申付候、謹言、
五月七日
大主

猶以真田毛利申合、そつしのかつせん不可然候今日一大事、天下わけめの合戦ニて候間、ぬけかけ無之様ニ堅く堅く軍法せん用ニ候、兎角敵を引請候て、一戦およひ候ハゝ、かならずかならずりうんたるべく候 ? 大野主馬軍令状
^ イエズス会の報告によると、馬印を掲げることよって、あたかも秀頼が戦場に居るかのごとく見せていたという。
^ 味方の傷ついた兵士を看病していた、との説もある。
^ 当時の細川忠興の書状には「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候。 」とある。
^ 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
^ 「ふしゃくしんみょう」:仏法のために身命をささげて惜しまないこと。
^ この書で編集者の三木之幹らは「幸村は誤り、信仍が正しい」としているが、「信仍」は恐らく「信繁」の誤読)。
^ 通説では大谷吉継の娘とするが、大谷家の方の系図に表記がないため、姪または妹を養女にしたとも言う。いずれにしても名目上は吉継の娘として嫁いでいる。
^ 滝川一積の養女として郷喜の息子に嫁いだとも。この件は後年、寛永蒲生騒動において蒲生郷喜が告発される一因となる(『徳川実紀』寛永9年7月10日条)。
^ 豊臣秀次の娘が信繁に嫁いだ経緯などはわかっていない。御田姫の母とされ、大坂城落城後は身重の母は娘と共に京都瑞龍院日秀(秀次生母)のもとに避難した[6]
^ 大坂城落城の際に乱妨取りされたという[76]

出典^ 小林計一郎『戦国史料叢書 第2期2 真田史料集』 1966, p. 347-453
^ 丸島 2015, p. 204
^ 平山 2015, p. 263

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