日本の養殖真珠の発明とは「球体に削った核を、アコヤガイの体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる」というものである。
巻貝から生成されるコンク真珠やメロ真珠は真珠層が形成されない。従って、上記のアコヤガイなどの真珠と区別されることがある。
真珠の重量の計量単位には、養殖真珠の産業化に成功したのが日本であったことから、日本の尺貫法の単位である匁(3.75グラム)や貫(3.75キログラム)が使われる一方で、グラム、カラット(200ミリグラム)やグレーン(通常は正確に64.798 91ミリグラムだが、真珠の計量については50ミリグラム)も用いられる。真珠の大きさの単位はミリメートルであるが、真珠のネックレスの長さについては業者間の取引では主にインチが使われている。
冠婚葬祭のいずれの場面でも使える便利な装飾品で、「日本人が最も多く持つジュエリー」との推測もある[4]。炭酸カルシウムが主成分であるため、汗が付いたまま放置もしくは保管すると塩分との化学反応が緩やかに発生し、真珠特有の光沢が失われる。このため、着用もしくは使用後早めに柔らかい布で拭くなどの手入れが大切である。
柑橘系のものや汗で溶けるので着用した後は拭く必要がある。
歴史真珠養殖旅順口区の真珠貝養殖
天然では産出が稀であるが加工が容易で「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれているほどの美しい光沢に富むため、世界各地で古くから宝石として珍重されてきた。またその希少性から薬としての効能を期待し、服用される例がしばしば見られる。日本でも解熱剤として使用されていた事が(2006年時点で)確認されている。
強心薬の中に、成分として含まれている物も販売されている。[5]
エジプトでは紀元前32世紀頃から既に知られていたと言われるが、宝飾品としてあるいは薬として珍重されるようになったのは後の時代である。クレオパトラが酢に溶かして飲んでいたと伝えられる [注釈 1]。世界の他の地域でも中国大陸では紀元前23世紀頃、ペルシャで紀元前7世紀頃、ローマでは紀元前3世紀頃から真珠が用いられていたという記録がある。
日本は古くから真珠の産地として有名であった。北海道や岩手県にある縄文時代の遺跡からは、糸を通したとみられる穴が空いた淡水真珠が出土している。『魏志倭人伝』にも邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)5000を送ったことが記されている。『日本書紀』や『古事記』、『万葉集』にも真珠の記述が見られ、『万葉集』には真珠を詠み込んだ歌が56首含まれる。当時は「たま」「まだま」「しらたま(白玉)」などと呼ばれた。とくに肥前国の大村湾は肥前国風土記にも記されているように、天然真珠などの一大産地であった。景行天皇は湾の北岸地域に住んでいた速来津姫・健津三間・箆簗らから、白玉・石上神木蓮子玉(いそのかみいたびだま)・美しき玉の3色の玉を奪い取った。天皇は「この国は豊富に玉が備わった国であるから具足玉国(たまそなうくに・そないだまのくに)と呼ぶように」と命じ、それが訛って彼杵(そのぎ)という地名になったともいわれる。それら3色の玉は石上神宮の神宝となった。
平安時代の『延喜式』「雑式」には、貴族達が家来を派遣して盛んに対馬の真珠を買いあさったため、人々が混乱していると記述されている。
志摩国(現三重県東部)の英虞湾や、伊予国(現愛媛県)の宇和海でアコヤガイから採取されていたが、日本以外で採れる真珠(外国産)に比べ小粒だった。
真珠は装飾品としてだけでなく、呪術的な意味も持っていた。仏教の七宝に数えられることもあり、寺院跡地からは建立時の地鎮祭に使われた鎮檀具の一つとして真珠が出土することもある。独特の輝きから眼病薬や解毒剤としての効能があるとも信じられていた[7]。
日本の真珠の美しさはヨーロッパまで伝えられ、コロンブスも憧れたという。