アメリカ軍拠点名の“Pearl Harbor”を「真珠湾」とした初出は1941年12月に日本軍のハワイ・オワフ島攻撃を報じた新聞の紙面とされ、原徳三によるとこの時に「白亜館は日本軍が真珠湾に対し攻撃を開始したと発表」と書いた文章が「真珠湾」の始まりであるという[3]。原によると開戦時点での大本営にはPearl Harborを指す語は無く、また山本五十六はこの地を「真珠港」と書いていた。なお、日本海軍は開戦以前からアメリカ海軍の拠点名を真珠港としている。大本営発表が初めて「真珠湾」の語を用いたのは1942年3月7日付けの、特殊潜航艇による特別攻撃隊公報であるとされる[3]。 1941年12月の真珠湾攻撃の地であり、アリゾナ・メモリアルなどの追悼施設があるほか、毎年12月には追悼行事が行われている。また毎年12月7日当日には全国的にアメリカではテレビなどの番組で"Remembering Pearl Harbor"などと放送される。 1950年3月7日、アーサー・W・ラドフォード提督(当時の太平洋艦隊司令長官)は「アリゾナ」の残骸の上に国旗を掲揚することを命じた。また、アイゼンハワー大統領とケネディ大統領の任期の間に政府はアリゾナの残骸を国定慰霊碑にすることを決定し、1962年5月30日に正式に指定された。 アリゾナ・メモリアルは、戦死した乗組員の名が刻まれた大理石の壁が船体の上を横切る形で設置されている。「アリゾナ」の上部構造及び主砲塔4基のうち3基は撤去されたが、一基の主砲塔リングは現在も水面下に確認できる。追悼式が毎年生存者も参加して行われている。海上自衛隊の艦艇は真珠湾を通過する際、「アリゾナ」に対して敬礼を行っている。 2010年現在も船体から油が漏れだし水面に浮かんでいる。一日あたり1クォートの油が漏れ続けている[4]。乗組員達は最後の生存者が死ぬまで油は漏れ続けるだろうと語っている。生存者の多くは、自らの死後火葬の上、遺灰を「アリゾナ」に撒いてもらうよう準備している。海軍は湾の環境悪化を懸念して油の漏出対策を考慮している。 アリゾナ・メモリアルは1966年10月15日に国家歴史登録財に登録された。艦自体は1989年5月5日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。 毎年12月には追悼式典が真珠湾で行われている。2016年には米海軍と在ホノルル日本総領事館主催の初の日米共催となる追悼式典も行われた[5]。 日本の現職首相もこれまで何度か真珠湾を訪問している。
追悼施設及び追悼行事
アリゾナ・メモリアルアリゾナ・メモリアル 奥にみえるのはアイオワ級戦艦「ミズーリ」
追悼式典
日本の首相による真珠湾訪問
1951年、吉田茂首相が真珠湾に面した太平洋艦隊司令部を訪問[6]。
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