真興王以来の領域の拡大に合わせるように、国内統治の精度を高めるために中央官制を整えることに努めた。後代にまで続く主要な官府として、位和府(後の吏部。人事)、船府署(航海)、調府(貢賦)、乗府(王の行幸)、礼部(儀礼教育)、領客府(外交)などが真平王の時代に初めて設置されたものである。また、宮廷内庶務を司る三宮(大宮、梁宮、沙梁宮)を設けてそれぞれに私臣を配置し、後には独りで三宮を統括させるように改めた。三宮を統括する私臣を内省私臣と称したことが、のちの内省(宮廷庶務)の始まりとされる。
官制を整える間にも智明・円光・曇育らの僧を陳や隋に派遣して仏法を修めさせるとともに、また度々の朝貢を行なって隋に接近した。これにより、隋からは594年に<上開府・楽浪郡公・新羅王>に冊封されている。
半島内では防戦状態が続いたが、602年8月の百済との阿莫城(全羅北道南原市)での会戦では百済を大敗させ、603年8月に高句麗が北漢山城(ソウル特別市)に侵入した際には、親征して高句麗を撃退した。しかし608年2月・8月には高句麗の侵入により牛鳴山城(江原道安辺郡瑞谷面)を陥落させられてもいる。この前後で隋から帰国した僧の円光に命じ、隋に高句麗討伐を求める上表文を書かせ、611年に提出したことが伝えられている。『隋書』にはこの上表のことは記されてはいないが、上表の直後の612年には未曾有の大軍による隋の高句麗遠征が引き起こされることとなった。
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは?岑城(忠清北道槐山郡)・母山城(忠清北道鎮川郡)付近で激しく戦って幾つもの城を失い、また城主を戦死させられるなど敗戦が続いた。唐へ働きかけてこうした劣勢を巻き返そうとする努力を続け、624年には唐より<柱国・楽浪郡公・新羅王>に冊封され、625年には高句麗の無道を訴え出た。しかしながら唐からは高句麗との和解を勧められるばかりであって、積極的な支援を得られたわけではなかった。626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。629年には高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、初陣となる副将金?信(『三国史記』金?信列伝によると、金?信は中国黄帝の子の少昊の子孫である[2])の活躍で同城を陥落させる勝利を得て、この後637年までは三国間に大きな戦いはなく過ごされることとなった。しかし国内では631年5月、伊?の?宿と阿?の石品とが反逆を起こしており、新羅国内の情勢は穏当とはいえない状況にあった。
こうした不穏当な状況下、632年1月に死去[3]した。真平王と諡され、漢祇(比定地未詳)に埋葬された。唐の太宗からは<左光禄大夫>を追贈され、香典として布2百反を賜った。
家族
父:銅輪太子
母:萬呼太后