隋代の行政区画変遷 618年(武徳元年)、唐により恒山郡は恒州と改められた。恒州は真定・石邑・九門・行唐・滋陽の5県を管轄し、その州治は石邑県に置かれた。742年(天宝元年)、恒州は常山郡と改称された。756年(天宝15年)、常山郡は平山郡と改称された。758年(乾元元年)、平山郡は恒州の称にもどされた。820年(元和15年)、穆宗の諱を避けるために、恒州は鎮州と改称された。鎮州は河北道に属し、真定・石邑・九門・行唐・霊寿・井?・獲鹿・平山・藁城・欒城・鼓城の11県を管轄した[4]。 923年(同光元年)4月、後唐により鎮州に北都が建てられ、鎮州は真定府と改められた[5]。同年11月、真定府は鎮州の称にもどされた。942年(天福7年)、後晋により鎮州は恒州と改称された[6]。947年(天福12年)、後漢により恒州は鎮州の称にもどされた。948年(乾祐元年)、鎮州は真定府と改められた。951年(広順元年)、後周により真定府は鎮州の称にもどされた。 金のとき、真定府は河北西路に属し、真定・藁城・欒城・元氏・獲鹿・平山・行唐・霊寿・阜平の9県と嘉祐・行台・慈谷の3鎮を管轄した[8]。 モンゴル帝国により真定府は真定路と改められた。元のとき、真定路は中書省に属し、録事司と直属の真定・藁城・欒城・元氏・獲鹿・平山・霊寿・阜平・渉の9県と中山府に属する安喜・新楽・無極の3県と趙州に属する平棘・柏郷・隆平・高邑・臨城・賛皇・寧晋の7県と冀州に属する信都・南宮・棗強・武邑・新河の5県と晋州に属する鼓城・安平・饒陽・武強の4県と深州に属する静安・衡水の2県と蠡州、合わせて1府5州30県を管轄した[9]。 1723年(雍正元年)、清により雍正帝の諱を避けるために、真定府は正定府と改称された。正定府は直隷省に属し、正定・藁城・欒城・元氏・井?・獲鹿・平山・行唐・霊寿・阜平・無極・賛皇・新楽・晋州の1州13県を管轄した[11]。 鎮州・真定府・正定府などの中心が置かれたのは正定県(真定県)であったが、やがて鉄道駅のできた石家荘の町が大きくなり、地域の中心の地位を正定から奪った。
区分開皇元年区分大業3年
州恒州定州郡恒山郡
郡常山郡蒲吾郡鮮虞郡県真定県 井?県 霊寿県
九門県 行唐県 滋陽県
石邑県 房山県
県真定県 井?県霊寿県 蒲吾県
行唐県新市県
唐代
五代十国時代
宋代以降に属し、真定・藁城・欒城・元氏・井?・獲鹿・平山・行唐・霊寿の9県と北寨と天威軍を管轄した[7]。
脚注^ 『周書』武帝紀下
^ 『元和郡県志』では大業9年に恒州が廃止となり高陽郡に統合されたとあるが、これは誤りである。
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志二
^ 『資治通鑑』後唐紀一
^ 『旧五代史』晋書高祖紀
^ 『宋史』地理志二
^ 『金史』地理志中
^ 『元史』地理志一
^ 『明史』地理志一
^ 『清史稿』地理志一
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