看護師
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戦後になってから、看護教育は高度かつ専門的な資格に向けた多様化を遂げており、多くの伝統的な規制や看護提供者としての役割も変化しつつある[8][9]

看護師は、医師や療法士、患者やその家族、他の同僚たちと協働して(傷病者の)生活の質を向上させるべく病気の治療に焦点を当てた看護計画を作成する。アメリカ合衆国やイギリスでは、ナース・プラクティショナーなどの上級看護職が健康上の問題を診断したり薬や療法を処方できる(各州の規制にもよる)。看護師は、療法士や診療医や栄養士などの複数専門分野が携わる医療チームの仲間達によって行われる患者ケアの調整を支援する場合もある。看護師は、医師達と相互依存する形で看護ケアを実施すると共に、看護の専門家としてケアを提供している。
歴史
18世紀以前

看護の歴史研究家は、古代に行なわれた傷病者への世話が看護ケアにあたるか否かの判断で意見が割れている[10]。例えば紀元前5世紀のヒポクラテス全集には、付き添い人による患者への優れた世話および観察の記述があり、彼らが初期の看護師といえるかもしれない[11]。紀元前600年頃のインドの医学書『スシュルタ・サンヒター』には、看護師の役割に関する「皮膚を含めた体の様々な部位は、解剖学に精通していなければ正確に説明できない。そのため、解剖学の完全な知識を習得したい人は遺体を調達して解剖することで、様々な部位を注意深く観察したり調べてみるべきである」との記述が残っている。

近代看護の基礎ができる前は、修道女や僧侶などの修道者が看護に似たケア(施し)を行っていた[12]。キリスト教[13]のほかイスラム教[14] や仏教[15]の伝統にもそうした例が存在する。『ローマの信徒への手紙』16章に綴られているフィベ (Phoebe (biblical figure)) は、多くの資料で「最初の訪問看護師」だと説明されている[16][17]。これらの伝統が近代看護のエートスの発展に影響を与えており、宗教的なルーツの痕跡が現在も多くの国に残っている。イギリスの例を挙げると、かつての上司にあたる看護師を「シスター」という歴史的な敬称を使って呼ぶことがある[18]

16世紀の宗教改革期に、プロテスタントの改革派が修道院を閉鎖して、北欧では数百の自治体ホスピスが運営を引き継いでいった。看護師の役割を果たしていた修道女は、年金を受け取ったり結婚して家庭におさまるよう告げられた[19]。ローマカトリック教会に根ざした伝統的な世話人(caretaker)がその職位から外されたため、看護は経験の浅い人が施すようになり、西洋の看護職は約200年におよぶ大きな停滞に瀕した[20]
19世紀フローレンス・ナイチンゲールは現代看護の発展における第一人者。彼女は、5つの環境要因(1.新鮮な空気、2.澄んだ水、3.効率的な排水、4.清潔さ、5.光、特に直射日光)と健康とを結びつけ、これら要因の不備が健康を損なったり病気をもたらすとした[21]。看護の役割と看護教育はどちらもナイチンゲールによって初めて定義された。

クリミア戦争時に、エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)は軍病院での年間奉仕を目的とした聖十字隊(Krestodvizhenskaya obshchina) に参加するよう女性達に呼び掛けた。28人の女性隊員による第一班が1854年11月初頭にクリミアに向かった[22]

フローレンス・ナイチンゲールは、このクリミア戦争を経て職業看護の基礎を築いた[23]。彼女の『看護覚え書(Notes on Nursing,1859)』が評判を呼ぶようになった。職業教育のナイチンゲールモデルは、継続的に運営する病院や医学部と繋がりのある最初の看護学校設立へと至り、1870年以降に欧州と北米で広く普及した[24]。またナイチンゲールは、統計データを活用する先駆者でもあった[25]

ナイチンゲールの提言は、同じクリミア戦争の前線で奉仕したメアリ・シーコール(ジャマイカ生まれの「女医」兼看護師)[26]の成果に基づいて構築された。シーコールは、19世紀のクリミア・中米・ジャマイカで負傷兵および病気に苦しんでいる人々を癒すために、衛生を実践したりハーブを用いた。彼女の祖先は18世紀のジャマイカ植民地 (Colony of Jamaica) で神霊治療家として大成功を収めており、そこにはシーコールの母、キューバ・コーンウォリス、グレース・ドンヌ(最も裕福なジャマイカの植民農園地主サイモン・テイラーの愛人にして女医)などが含まれる[27]

職業上の発展における他の重要な看護師は次のとおり。

アグネス・ハントは、シュロップシャー出身の最初の整形外科看護師であり、同州の整形外科病院ができた際に非常に貢献した。

アグネス・ジョーンズは、1865年にリバプールの診療所で看護師養成体制を確立した。

リンダ・リチャーズは、米国と日本で質の高い看護学校を設立した人物で、米国にて最初の公式な職業訓練を受けた看護師。

クララ・バートンは、先駆的なアメリカの教師、特許事務官、看護師、人道主義者、そしてアメリカ赤十字社の創設者。

マリアン・コープは、米国で最初の総合病院を幾つか開設運営した聖フランシスの修道女で、彼女の設けた清潔基準が米国における近代的な病院体系の発展に影響を与えた[28]

1863年の赤十字国際委員会創設後に登場するようになった赤十字標章は、看護師に雇用と職業化(フローレンス・ナイチンゲールは当初これに反対した)の機会を提供した[29]。貧民救済修道女会、慈悲修道女会、マリアの宣教者フランシスコ修道会などのカトリック叙階が、この時期に病院を建設して看護奉仕を行なった[要出典]。次いで、1836年にドイツで近代的な教会の女子慈善奉仕運動 (deaconess movement) が始まった[30]。欧州では半世紀経たぬうちに教会の女子慈善奉仕隊が5000以上存在していた[31]

近代軍隊における看護師の正式な使用は、19世紀後半に始まった。第一次ボーア戦争、エジプト戦役(1882)[32]スーダン戦役(1883)[33]にて看護師の戦地赴任が確認されている。
20世紀第一次世界大戦当時のオーストラリアの看護師募集ポスター

病院を拠点とする養成訓練は1900年代初頭に登場し、実務経験を重視するものとなった。ナイチンゲール様式の学校は無くなり始めた。病院と医師は、看護する女性すなわち看護婦を無償または安価な労働源だと見なしていた。雇用者、医師、教育者による看護師の搾取は当時珍しいことではなかった[34]

多くの看護師の戦地赴任が第一次世界大戦で確認されているが、第二次世界大戦期に専門職へと移行した。陸軍の看護役務に就くイギリスの看護師はあらゆる海外戦役の一環として存在していた[35]。他のどの職業よりも大勢の看護師が米国陸軍および海軍での奉仕を志願した[36][37]。ナチス軍は独自の看護師(Brown Nurse)を40,000 強保有していた[38]。20数名のドイツ赤十字看護師が戦火での英雄行為を理由に鉄十字を叙勲された[39]

この時期には大学および大学院における看護学位の発展が見られた。看護研究の進歩および団体や組織に対する要望は、専門機関や学術誌の多種多様な形成をもたらした。明確な学問分野としての看護の認知向上は、実践に向けた基礎理論を定義する必要性も伴うものとなった[40]

19世紀および20世紀初頭は、医師が男性の職業であったように、看護が女性の職業と考えられていた。20世紀後半に職場の男女機会均等への機運が高まる中、公的には看護がジェンダー中立の職業となったが、実際のところ男性看護師の割合は21世紀初頭における女性医師の割合をも大きく下回っている[41][42]
職業として患者を診察するインドネシアの看護師火傷を負った患者を処置する看護師。


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