眉村卓
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1965年 (昭和40年) 、第一作品集『準B級市民』を刊行、同年大広を辞め、専業作家として活動を開始する[1]1968年 (昭和43年) には、三一書房の「さんいちぶっくす」から初のショートショート集『ながいながい午睡』を刊行した[9]。以降、生涯に渡ってショートショートを書き継いでいくが、その数は3000篇もの数に達する[9]。これは星新一の書いたショートショートの倍近い分量である[9]

1979年 (昭和54年) には、『消滅の光輪』にて第7回泉鏡花文学賞および星雲賞を受賞した[1]1987年 (昭和62年) に『夕焼けの回転木馬』で第7回日本文芸大賞を受賞し、1996年 (平成8年) には『引き潮のとき』で2度目となる星雲賞を受賞した。インサイダー文学論を提唱し[8]、組織と個人の葛藤を作品のテーマとしている。また多数の短編SFやエッセイジュブナイル小説を執筆した。作家活動以外ではラジオパーソナリティも務めた[8](『チャチャヤング』(毎日放送)、『男のポケット』(FM大阪)、『飛べ! 熊五郎、ただ今大奮闘』(ラジオ関西))。

ジュブナイル小説の代表作にはNHK少年ドラマシリーズ』などでテレビドラマ化された『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』などがある。ジュブナイル小説の多くが絶版となったが、2003年 (平成15年) から講談社青い鳥文庫から4冊が復刻されている。

また、福島正実が創設した作家、翻訳家、画家等の集団「少年文芸作家クラブ」(のち「創作集団プロミネンス」)にも参加した。「覆面座談会事件」で福島と仲たがいした他のSF作家たちが会から脱会したのちも、光瀬龍とともに会に残った。また、1974年には福島と長編『飢餓列島』を共作している[10]

日本SF作家クラブ会員であり、矢野徹会長時代に四代目事務局長をつとめたが、1992年 (平成6年) から2008年 (平成20年) まで退会していたことがあったという[11]

大阪芸術大学芸術学部文芸学科の教授、同大学院の芸術研究科教授[12]平安女学院大学文化創造センター客員教授も務めた。

2006年 (平成18年) から、産経新聞夕刊(大阪本社発行)の読者投稿欄『夕焼けエッセー』(2019年〈平成31年〉4月から朝刊『朝晴れエッセー』)の選考委員を務めた[1]

2009年 (平成21年) 11月に、癌で2002年 (平成14年) に死去した妻・悦子に日々、自作のショート・ショートを捧げた実話をもとにした、映画『僕と妻の1778の物語』が製作発表され、東宝配給で2011年 (平成23年) 1月に公開された。2012年 (平成24年) 6月には「笑うは薬」堀内孝雄歌唱でエピソードがCD化された。

2012年 (平成24年) より、泉大津市オリアム随筆賞の選考委員に就任した。2013年 (平成25年) 、他のベテラン作家とともに、日本SF作家クラブの名誉会員に[13]

2019年 (令和元年) 11月3日、誤嚥性肺炎のため大阪市阿倍野区大阪鉄道病院で死去。85歳没[2]。死の3日前に完成させた自伝的長編小説『その果てを知らず』が最後の作品になった[6]。同作品は、翌年に講談社から刊行された。

2020年 (令和2年) 、第40回日本SF大賞で功績賞を受賞。
句作


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