幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神(Dieu trompeur)で、自分が認める全てのものが悪い霊(genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。 方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。 コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則) 欺く神 (Dieu trompeur)、悪しき霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。 悪しき霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
コギト・エルゴ・スム
神の存在証明
第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表象的事象性(観念の表現する事象性)は、対応する形相的事象性(現実的事象性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
参考文献
ルネ・デカルト『省察』山田弘明訳[2](ちくま学芸文庫、2006年)。ISBN 4480089659
脚注^ a b c d e コトバンク、ブリタニカ国際大百科「省察録」。 https://kotobank.jp/word/省察録
^ 近年刊の訳書は、デカルト『省察 情念論』(井上庄七ほか訳、中公クラシックス、2002年)がある。
外部リンク
『省察 神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての』:旧字旧仮名 - 青空文庫(三木清訳)
『省察 神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての』:新字新仮名 - 青空文庫(三木清訳)
香川知晶「省察」(Yahoo!百科事典)