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また『日本書紀』の巻第三十において、持統天皇4年(690年)春正月に持統天皇の即位に際して物部麻呂朝臣が大盾を樹てたことや、『続日本紀』において、文武天皇2年(698年)11月に行われた大嘗に榎井倭麻呂が大盾を立てる儀礼を行い、以降、大嘗に当たり、物部・石上・榎井氏によって、大嘗宮の門に盾を立てることが慣行となったとある。古代日本において盾は実用具以外の面も持ち合わせており、権力者の墓や建物、宮門を悪霊の類から守る信仰は一例とみられる。中には、石室内に盾が描かれている例もある[注釈 6]。権力者の間で仏教が普及すると、こうした盾の信仰も忘れ去られたものとみられる。奈良県四条古墳出土の5世紀の木製盾やそれと形状が類似する盾形埴輪(奈良県から静岡県にかけて見られる上部がY字状でくびれが多い盾)などから5世紀当時の盾の長さは130センチ前後であり、盾持人埴輪の表現にある様に顔は丸出しだったとみられる(四条古墳出土の木製品については、祭祀盾[注釈 7]とする見解が一般的であるが、研究者によっては疑っており、杖とする見解もある。また、5世紀の近畿圏では小型な手持ち盾の例もある)。奈良県の5世紀の遺跡から出土した鉄製盾の長さも130センチ程である。

この他、「隼人の盾」があり、朝廷が隼人を制圧した後、内国に移配した結果、平城宮跡からも出土している。この隼人盾の長さは150センチである。これは、『延喜式』の「長さ五尺、広さ一尺八寸、厚さ一寸、頭には馬髪を編みつけ、赤白の土墨でもって鈎(こう)形を画く[注釈 8]」とある記述と合致し、外国からの客を迎える際の規定であった。6世紀の東国の盾持人埴輪を見る限り、西国よりシンプルなデザインとなっている。

西国・東国・隼人の武人に共通して多く見られる盾の模様は、三角形を単位紋とする鋸歯(きょし)紋、いわゆるギザギザ模様である。一説には悪霊に対する威嚇という呪術的な意味合いのものとされる。古墳時代の盾にはを塗っている例もある。

万葉集』の一巻と二十巻に盾に関する歌がある。一巻に記された歌は、弓を射る音が鳴ると、武官は楯を立てるという内容で、音に敏感に反応する武人の様子が描かれている。大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母 ? 『萬葉集』1巻 76 和銅元年戊申 元明天皇

8世紀の段階では、歩兵は長柄の矛を両手で使用するようになり、騎兵も史料上から片手で使用・携帯する盾の使用はあまり見られなくなる[9]
中世
中世ヨーロッパ

中世ヨーロッパでは騎士道の象徴であり、盾の形状や紋章は厳格に規定・区分され、紋章を見れば騎士の出自を含めて誰かが分かる程だった。この盾の紋章から、西欧紋章ひいては近現代の世界各国の国旗国章が発展した。騎士には必ず盾持ちの従者が伴っていた。中世終期には、チェーンメイルから全身を覆う頑丈なプレートアーマーに移行し、必ずしも全身を遮蔽する必要がなくなったため盾は小さくなった。そのため上記のような儀礼的・象徴的な意味が強まったとはいえ、実戦においても盾の必要性はさほど変わらなかった(鎧はハンマーやメイス等の重い打撃武器には比較的弱い。また攻城戦でよく用いられる投石、汚物、熱した油、火炎放射、弓矢といった飛び道具を防ぎ、近接戦闘でも剣や槍などの攻撃を受け流しつつ反撃するのに盾は有効だった)。
中世日本蒙古兵が立てる掻盾(竹崎季長蒙古襲来絵詞』)火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊。身を守るために、盾を用いている。

日本では追儺式時の方相氏が盾と矛を持つなどの儀式用以外は平安時代から室町時代初期にかけて掻盾を小型にしたような並べた厚板に鍋の取手の様な柄をつけた手盾があったが、主要武器の日本刀薙刀など両手使いに発達すると、鎧が発達し、手にもつタイプの盾(手盾)がすたれた[注釈 9][注釈 10](騎射戦において、肩部・側面を防護する大袖を腰をひねることで正面に向け、一種の盾として利用する手法がとられていた[10]が、この大袖による防御手段は太刀薙刀による白兵戦にも使用された。)。

一方で、地面に固定する型の盾(掻盾、垣盾などといわれる、普通は厚板二枚を縦に並べて接ぎ、表に紋を描き、裏に支柱をつけて地面に立てるようにしてある)が使われた。戦国時代になると矢だけでなく鉄砲銃弾からの防禦も重視されるようになり、利便性と防禦性の高さから竹束が用いられるようになった。これには大型の物と小型の物が存在し、小型の物は手に持っての銃弾防禦が可能であった。使用の際は弾丸の入射角に対し斜め鋭角に設置する(避弾経始)。また、濡らした厚地の布(場合によっては広げた甲冑など鋼板製のものも共に)を建物の門や戸口などに設置し、カーテンの原理(布地の柔軟性と避弾経始を組み合わせ、飛来物の軌道と威力を逸らす作用)により弾丸を逸らす事実上の置き盾も少数例ながらあった。同様に矢玉避けに背負う母衣も盾と見ることが出来る。またを囲むよう多重に巡らし遮蔽させた幔幕も同様の役割を果たした。手盾については後述(東洋の盾→)を参照。

戦国期に多く考案された盾として、「車盾」(下部に車輪を有した攻城用盾)があり、「掻盾牛(かいだてうし)」や「転盾(まくりたて)」、「木慢」[11]、「車竹束」、「車井楼( - せいろう)」(『軍法極秘伝書』内に記載される)などといったものがある。この他、近世の書『海国兵談』には、木慢と外観が似た吊り下げるタイプの盾の「槹木」があるが、これは城壁内に立て、城壁の上から来る投射物を防ぐための城壁を補助する盾で、車盾ではない。

近世江戸期の『和漢三才図会』には、「歩盾(てだて)」として、画と共に記述が見られ、甲冑武者が左手に長方形の盾を持つ姿が描かれている(右には短槍)。画の形式は、掻盾と同じ(この他、様々な盾を記述したものとして、『訓閲集』が見られる)。また、『三才図会』では、盾の説明として、画に車盾が描かれている。歩盾を「てだて」と読むのは、10世紀中頃の『和名類聚抄』巻十三に見られ、中国の『釋名』を引用した上で、和名を「天太天(てだて)」と記している。
現代ポリカーボネート盾を持つイギリス警察官

現代においては火器の攻撃力増加により、手盾が正規の戦争で使用されることはほとんど無くなったが、暴動鎮圧用としては世界中の警察軍隊で装備されている。この種の盾(ライオットシールド)は、本格的な防弾性能はほぼ無いものの、軽量で頑丈なジュラルミン製や透明で視界に優れたポリカーボネート製のものが多く採用されている。また、セラミックや金属などで作られ小銃弾程度なら防御可能な盾や、強靭なケブラー繊維で作られたカーペットのような盾(刃物を振るわれても切れず鈍器も受け流せるが、防弾性能では劣る)も存在しており、警察の銃器対策や軍隊の市街戦などで使用されている。ただし、防御力を重視した盾は重量が大きく扱いづらいという欠点がある。

車両や陣地に備え付けられる銃器には「防盾」と呼ばれる鋼鉄製の盾が付属することがある。地面に置く盾としては、より安価で効果的な土嚢などが使用される。

一方、現代の神社でも「神宝盾」や「儀盾」を用いる事があるが、これは「持盾」と「据盾」の二種である。いずれも木製、黒漆、上部を三山形に切り込み、表面に巴紋または神紋を附けることになっている[12]
盾の分類

四角盾

長方盾

丸盾・丸楯(牌・団牌・円楯・円盾)

菱盾

逆三角盾

楕円盾

五角盾

木の葉盾

槍盾

剣盾

環盾

六角盾(
ボルネオ島先住民イバン族に見られる)

盾の大きさの分類


小盾・小楯(30cm以内)

手楯・手盾・楯・盾(30?60cm)

大盾・大楯(0.6m?1m)

壁盾(1m以上)

使用の分類


持盾

置盾(パヴィース、掻盾)

移動式(木慢、竹束、持備、車備)

種類

戦闘用の盾と、儀式用の盾がある。

戦闘時に手で持つ盾と、地面に固定する大型の盾がある。後者の代表的例は、弓兵が矢をつがえる間身を守るためのハピスと呼ばれるものである。日本で盾というとこのタイプを指す。

鎧に盾の一部が付いている物が世界中にある。

内側に短刀を仕込める盾もある。

高い攻撃力を持たせるために刃や突起物などを有する物や、ランタンや他の道具を取り付け複合化した物など。

記念・賞としての楯

もともとは、ヨーロッパの領主たちが近隣の領主に贈り物として贈与したもの。

友好の証(私がもし攻撃するようなことがあったら、この盾で防いでください)であるとともに、自領の防御力(私の領地は防御がしっかりしているので攻撃しても撃退されますよ)を暗示していた。時代が下るとともに防衛力を示す意味が薄れてゆき、功績や友情を表す記念品としての形状と『楯(盾)』という名称だけが残り、特別な贈答品として世界中に普及した(表彰盾/楯・優勝盾/楯)。優勝旗は持ち回りなので次回本大会の際に返還しなければならないが、優勝楯はチームに贈呈される。

イタリアのサッカーリーグセリエAで優勝することを「スクデットを取る」というが、この「スクデット」も盾を意味する。


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