相馬黒光
[Wikipedia|▼Menu]
子供の友人に朝日新聞社で編集局長・専務を務めた信夫韓一郎がいた。青春時代の若かりし頃、実父と折り合いが悪く家出同然の生活を送っていた信夫にとって、黒光はよき理解者であり話相手であった。信夫は超が付く程の冠婚葬祭嫌いとして知られる人物であったが、黒光の病気が悪くなると、「黒光さんの葬式だけは逃げられない」と言って礼服を作り、周囲を大いに驚かせたという。
家族

母方祖父の星雄記(1884年没)は漢学者で、松前町奉行、仙台藩評定奉行の要職についたこともあった
[1]

母の民之治(みのじ)母 巳之治は星雄記の三女で、次妹に佐々城豊寿

黒光の父・星喜四郎(1891年没)は、同じく仙台藩士であった多田家から星家に婿入りした人物である[3]。最初、民之治の姉の亀代の婿として星家に入ったが、産後すぐ亀代が死去したため、妹の民之治と再婚した[1]廃藩置県後は宮城県庁吏員や盛岡の会社員として家から離れて働いていたが、肺癌を患い、1890年に家に戻り翌年没した[1]

姉の蓮子(1901年没)は東京の桜井女学校の寄宿舎で婦人矯風会会長矢島楫子に仕え、楫子の長男・林治定(日本郵船社員)の婚約者となったが、挙式半月前に突然婚約が破棄されて1887年に帰仙、鬱状態を経て発狂、一家に暗い影を落とした[1][4]。破談の原因は、蓮子の叔母である佐々城豊寿と楫子の仲違いにあると言われている[5]

兄の圭三郎は、父の没後、黒光の学費を支えた。

弟の文四郎(1892年没)は1890年に急性骨髄炎となり右足を切断した[1]

夫・相馬愛蔵

長女・俊子(インド人ラース・ビハーリー・ボースと結婚、正秀、哲子の2児をもうけたのち26歳で病死)、長男・安雄(新宿中村屋2代目社長)、次女・千香子、三女・睦、次男・襄二(1910年に病死。荻原碌山作の『母と病める子』のモデル)、三男・雄三郎、四男・文雄(17歳でブラジルへ渡り2年後マラリアで死亡)、五男・虎雄、四女・哲子。養女・浦子(黒光の叔母 佐々城豊寿の娘・佐々城信子国木田独歩との子)。

多田駿(陸軍大将、黒光より6歳(数え年)年下)は、父方のいとこであり[6]、多田が黒光を「伯母」と呼ぶ仲であった[3]

父方の伯母・兼の孫・佐藤をとみの夫は郭沫若である[7]


明治23年頃(1890)の黒光

荻原碌山作「母と病める子」明治43年(1910年)3月制作。モデルは黒光と次男の襄二で、襄二が没する前日に描かれた。

黒光(左)と娘の俊子、サリーの装い、大正10年(1921)頃

著書

『黙移 相馬黒光自伝』、新版・法政大学出版局、平凡社ライブラリーほか

『滴水録』 - 回想記

『穂高高原』 - 随筆

『広瀬川の畔』- 仙台時代の回想記

『明治初期の三女性 
中島湘煙若松賎子清水紫琴』、新版・不二出版

『相馬愛蔵・黒光著作集』全5巻 復刻・郷土出版社, 新版1996

脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h 相馬黒光論 : 「魂」の遍歴葛井 義憲、基督教研究 巻 46 号 1984-10-31 基督教研究会
^ a b c d e f 「第二特集 世界に誇るしられざる東北不屈の偉人伝」歴史読本2013年10月号

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:18 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef