この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。
相田 翔子
生誕 (1970-02-23) 1970年2月23日(54歳)
出身地 日本、東京都東村山市[1]
学歴文華女子高等学校卒
ジャンルポップス、J-POP
職業歌手、タレント、女優
担当楽器ボーカル
活動期間1988年 -
レーベルポリスター
(1988年-1998年[注 1])
地中海
(2003年-2004年)
UP-FRONT WORKS
(2011年)
zetima
(2013年 - )
事務所アップライトミュージック
(1988年 - 1994年)
P-Artists
(1994年 - 1996年)
BIG J
(1997年 - 1999年)
アップフロントプロモーション[注 2]
(2000年 - 2013年)
アップフロントクリエイト
(2013年 - )
共同作業者門倉聡
村上"ポンタ"秀一
公式サイト ⇒相田翔子オフィシャルサイト:Blue Star
相田翔子 オフィシャルブログ
相田 翔子(あいだ しょうこ、1970年2月23日[2] - )は、日本の女優、歌手、タレント。本名非公開[注 3]。別名、鈴木敬子[3][注 4]。1988年から1996年まで活動したアイドルデュオ、Wink(活動停止済み)のメンバー。
東京都[4]東村山市出身。血液型はB型。所属事務所はアップフロントクリエイト。
夫は相澤宏光。義父(夫の父)は相澤英之、義母(夫の母)は司葉子。義兄(夫の兄)は相澤英孝。義姉(夫の兄の妻)は塩川美佳。 芸能界にデビューして一人暮らしを始めるまで、家族と共に東京都東村山市で育つ[5]。 子供の頃は、やんちゃでイタズラ好きだったという。3歳の時、肥溜に落ちて偶然通りかかった姉と友達に助けられたことは、トーク番組でよく話題にされる[6]。歌が好きで、よく姉とピンク・レディー等の歌を歌っていた[7]。ピンク・レディーではケイのファンであった[8]。小学校低学年の頃、近所の友達を集めて草芝居を行うなど活発な少女だった[8]。しかし、幼少期は知らない人の前で何かをすることができず、芸能界への憧れはまるでなかったという[8]。 中学時代クラッシュギャルズに憧れ、入団テストを受けるためトレーニングをしていた[5]。全日本女子プロレスのオーディションに数回応募するが、いつも不合格で断念する。 中学2年生(当時14歳)の時に、友人の応募でオーディションを受けたことがきっかけで、渋谷で芸能プロダクションのマネージャーにスカウトされたのち、芸能プロダクションに所属、歌手としてのレッスンを受け始める[8]。母はかつて歌手に憧れていたためその夢を応援したが、父は芸能界への不安から反対した[8]。そのため当面はモデルとして活動し、歌手デビューは高校進学後にと事務所と話し合っていた[8]。 高校時代は複数のアルバイトを経験。紙袋をつくる内職 → 工場で冷凍ラビオリなどの箱詰め(姉と共に) → 惣菜屋(秋津商店会) → ハンバーガーショップ(高校2年から) → 居酒屋(新秋津駅前) → パン屋「サントアン」(新秋津駅前)の順で働いた[9][10][11]。 高校2年生(当時16歳)の時にソロ歌手としてのデビューが予定されていたが、校則で禁止されていることを理由に辞退[7]。堀越高等学校への転校も考えたが、多くの芸能人が並ぶ中でのプレッシャーに耐えられないと考え、断念[8]。すでにデビュー曲はレコーディングも済んでおり、現在の感覚で言えば訴訟沙汰にもなりかねない事態であったが、当時の事務所の社長の配慮もあって大事には至らなかった[8]。本人はこの選択を後悔しておらず、後年の談話では、その時デビューしていたら自己主張できず、消えただけだろうと語っている[8]。なお、「幻のデビュー曲」となったこの楽曲は、歌手桑田靖子が歌っていそうな硬派な路線で、翔子は大変気に入っていたという[12]。 1987年9月、ワニブックス社の雑誌『UP TO BOY』の第9代ミスアップ・グランプリを受賞(第7代グランプリが後にWinkとしてデュオを組むことになる鈴木早智子)。 1988年4月、高校卒業後に鈴木早智子とWinkを結成し、CX系ドラマ『熱っぽいの!』[注 5] 主題歌「Sugar Baby Love」で歌手デビューする。
略歴
幼少期から芸能界デビュー(1970年 - 1988年)
Wink時代(1988年 - 1996年)