相澤秀禎
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人物

ライターの中森明夫は、「悪く言われるのを聞いたことがない。私が芸能界で出会った最高の人格者の一人だ」と記している[13]

ライターの三田格は「相澤本人に取材した際、聖子を狂人呼ばわりしたことは忘れられず」と記している。[14]

CBS・ソニーのディレクターだった若松宗雄は訃報に接した際に「いつも笑顔で、人に優しかった」「魑魅魍魎の芸能界ではまれな、温厚で裏表のない方でした」と偲んだ[15]

かつての商売敵であり、ピンクレディー育ての親として知られる貫泰夫・T&C ミュージック社長も、自らのブログのなかで「相澤さんの所ほどアットホームな事務所はないだろう」と述べている。ただし、稲増龍夫の『アイドル工学』で、相澤は「ただテレビに出たいだけというような、志の低い子は採用しない」と述べるなど、タレント育成に厳しい一面も見せていた。

岡田有希子の売り込みを「楽しくて楽しくて仕方がない」と語っており[16]、最大のファンの一人だったと言える。
手掛けた主なタレント
桜田淳子

桜田淳子は玄人筋の予想通り『スター誕生』(日本テレビ)の決戦に残り優勝した。そのときのスカウト合戦に名乗りを上げたレコード会社、プロダクションは30数社にのぼった[17]。争奪戦は「交渉時間各社10分、代表1人」という日テレの定めたルールで繰り広げられるが、淳子の両親は芸能界と縁がないため、どの会社を選べばいいのかわからなかった[17]。最終的には淳子のあこがれの的であった森田健作と一緒に仕事がしたい、という意思が決め手となり、森田を持っていた相澤が淳子を獲得した[17]

相澤は淳子のデビューのターゲットを渡辺プロの天地真理にしぼり、スター誕生の池田文雄プロデューサー、日本テレビ音楽出版・山田社長、専属レコード会社となったビクターから滝井制作本部長らが集まり知恵を出し合った[17]。デビュー曲の作詞は阿久悠、作曲は中村泰士に決まり、このふたりも同席した。スター桜田淳子はこうしてつくられた[17]
都はるみ

桜田淳子獲得の前年、都はるみを移籍で獲得した[18]。はるみは相澤の事務所で生き返り、1976年(昭和51年)に『北の宿から』の大ヒットを出す。この曲は150万枚売り、その年の日本レコード大賞日本歌謡大賞の2冠をはじめ各音楽祭のグランプリを総ナメした[18]
松田聖子

蒲池法子という福岡県久留米市に住む少女は、渡辺プロ副社長の渡辺美佐が責任者になって運営していた東京音楽学院九州校の生徒だった[19]。九州校は渡辺プロ九州支社の中にあり、社長の渡辺晋が福岡出身ということも手伝って渡辺プロの強力な勢力圏であった[19]。支社長は歌もそこそこ上手く、華があるし育て方次第で面白いと思い、内々に母親に話をすると渡辺プロに入りたいと乗ってきたので、テープと写真を直ちに東京に送った。ところが、東京から九州支社に届いた連絡は「不採用」だった。その理由が「この娘は、ガニ股である。ガニ股はテレビ映りがよくない。舞台でも問題がある」というものだった[20]

渡辺プロから門前払いをくわされた"金の卵にスカウトの手を差し伸べたのが、サンミュージック専務の福田時雄だった[21]。福田のあと押しもあって相澤も「磨けば光る」と即決した。蒲池は、1979年(昭和54年)6月に上京し、四谷のサンミュージックの事務所で最終テストを受けて合格し、7月から相澤の自宅に寄宿することになった[21]。高校も堀越学園に編入して本格的に芸能活動を始め、しばらくして芸名を「松田聖子」と付けられた[21]

1980年(昭和55年)、それまで雲の上の存在で人気絶頂だった山口百恵が、結婚のため引退するという突然のニュースが飛び込んできた。相澤はこのとき、自分の事務所の誰かを百恵の抜けたトップの座に座らせたい。という強烈な思いを抱いた[21]。早速、緊急会議の招集をかけ、その日のうちにサンミュージックの全マネージャーを集めた。サンミュージックとして誰をポスト百恵に押すのか意思統一をはかるためである[21]。淳子のマネージャーは当然のように淳子をポスト百恵にと発言し、聖子のマネージャーもここぞとばかり聖子を売り込んだ。会議は淳子でいくか新人でいくかで分かれた。断を下したのは相澤である。「淳子はもう自分の地盤を持っている。ミュージカル出演の話もきてるし、彼女の仕事の幅を広げてやればいいだろう。ここは聖子で行こう」[22]

相澤は聖子売り出しの資金としてまず3000万円を用意した。レコードはCBS・ソニーに決めた。百恵が所属していたのと同じ会社である[21]。また同時に資生堂に対しても化粧品のイメージソングを聖子に唄わせる運動を続けた。聖子にはエクボがなかったため画面に登場することはできなかったが、80年3月、数百人という候補者を押しのけて資生堂のイメージソングを唄うことが決まった[23]。CBS・ソニーはそれを受けて、聖子を「百恵二世」として推すことを決め、宣伝用ポスターには「ミス・ソニー松田聖子」の文字が刷り込まれた[23]。百恵のレコード宣伝のために用意されていた資金も聖子のため投入することになり、相澤の用意した3000万円とあわせると1億円にのぼった[23]。4月から資生堂がイメージソングとして聖子の新曲『裸足の季節』を使ったCMを流し出した[23]スポット1本平均50万円とすれば、2千本で10億円の宣伝費に相当する。それらが、すべて聖子にすべてプラスにはねかえってスターが生まれるという仕組みだった。こうして聖子は、一発でアイドルになった[23]
早見優

1981年(昭和56年)、キャシー・館野一美というハワイからやって来た娘を獲得した[18]。キャシーはレコードデビュー前から「ペンタックスMG」(アサヒペンタックス)、「クリーム・ゼリー」(ハウス食品)、「バスボン・ヘアコロン・シャンプー」(資生堂)と、3社のCMモデルになるほどの売れっ子になった。その露出度合いを宣伝費に換算すると50億円に達すると、相澤ははじき出した。キャシーは芸名を早見優と名付け、82年4月にレコードデビューした[18]
著書

『松田聖子のバランスシート―女として、社員として』
光文社(カッパ・ビジネス)、1983年4月。ISBN 978-4334011475

『聖子のシンデレラ・ロード : "育ての親"が明かす素顔・歌・結婚』光文社光文社文庫〉、1985年1月20日。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4334701017


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