相沢事件
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相沢の襲撃に気づいた新見大佐[注釈 8]は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた[注釈 9]。この事情について山田大佐は事件後、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った(新見大佐が相沢中佐の入室発見が遅れた理由については、戦後、新見大佐の治療にあたった長田眼科の長田昇医師が視野狭窄について証言している。(岩田礼著「軍務局長斬殺」) また、NHK歴史への招待」(永田軍務局長斬殺 昭和10年・1981年6月27日放映)でも長田医師本人が出演し証言している。)

新見大佐は当初、誘導尋問のような事情聴取で山田大佐の在室を証言をしたが、しばらくして山田大佐の在室については確認していないと証言を訂正している。山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。

永田が殺されたとき大川周明は「小磯がバカだからこんなことになった。あの書類[注釈 10]さえ始末しておけば永田は殺されずにすんだものを……」と嘆息したという[5]

社会民衆党亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」ということを述べている[6]
GHQによる調査

戦後の1945年(昭和20年)12月14日連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し相沢事件を含め、1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)までに発生したテロ事件に係る文書(警察記録、公判記録などいっさいの記録文書)の提出を命令した[7]。提出命令に先立ち、同年12月6日までにA級戦犯容疑者の逮捕命令が出されていた。
関連作品
映画


重臣と青年将校 陸海軍流血史
(1958年)

日本暗殺秘録(1969年)

漫画


血染めの紋章(原作:かわぐちかいじ 芳文社)(1972年)

昭和天皇物語(作画 能條純一:原作 半藤一利「昭和史」、脚本:永福一成、監修:志波秀宇)(2017年 - )

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 陸軍将官の人事決定は三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の協議の上でなければやらないという、大正二年に大正天皇の裁可を得た規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で教育総監を罷免した事件
^ 真崎の反駁に対し林陸相は苦し紛れに「これは実は南大将と永田局長との策謀で、南大将は自分に火中の栗を拾わせようとしている。満州から帰ってからこの策謀は激しくなった」と言った。[要出典]
^ 1935年(昭和10年)8月1日夜、陸軍省整備局長の山岡重厚中将が林銑十郎陸軍大臣と会談し、「真崎大将はなぜに免ぜられたるや?」という山岡の質問に対し、林大臣は「南、永田の工作にしてその他稲垣次郎中将(閑院宮別当)、鈴木荘六大将(前参謀総長)、植田謙吉、林弥之吉中将らより総長宮に申し上げ、殿下は真崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、総監を免ずるだけとせり」と返答した。(菅原裕『相沢中佐事件の真相』)
^ 2人を行政処分によって免官とした。陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。裁判によるべきこととなっていた。2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、と荒木貞夫は述べている(荒木貞夫『荒木貞夫風雲三十年』)
^ 鵜沢は衆議院議員時代に陸海軍軍法会議法の制定に関わったことがあり、自らが関与した法律で裁かれる人物を弁護するのは当然のことと考えていた(『明治大学百年史』 第四巻 通史編U、514-515頁)。
^ 前任者の鵜沢総明は相沢の弁護を担当したことで皇道派寄りの人物との誤解を受け、二・二六事件発生時には身柄を一時拘束され、相沢事件の担当弁護人も貴族院議員も、1938年(昭和13年)には明治大学総長も辞任を余儀なくされた(『明治大学百年史』 第四巻 通史編U、515頁)。
^ 荒木、真崎が中佐の背後にあるがごとくデマを飛ばし、両名を中佐とともに葬り去ろうとの陰険な策動が軍中央部で行われていたときであったので、弔問は控えるべきだとか、軍服でなく私服で行くべきだと荒木の知人たちは忠告したが、荒木夫人が「相沢さんが国を思うご一念から倒れられた以上、弔問されるに何の遠慮がいりましょう。いわんや現役軍人であられる閣下が、軍服で行かれることは当然すぎるほど当然で、遠慮される必要はありますまい」と毅然と言い、荒木は憲兵の監視する相沢家へ堂々と軍服で弔問したという(菅原裕『相沢中佐事件の真相』)。
^ 新見大佐は下を向いて報告していたので、すぐ右側を走り抜けた相沢に気づかず、正面に来て初めて気づいた。視野狭窄におかされ白内障も併発していたという(岩田礼『軍務局長惨殺』)
^ 実際には、山田大佐は局長室にいて、ついたてのところで「相沢、よせ、よせ」と口走るばかりであったという(岩田礼『軍務局長惨殺』)。
^ 永田が立案作成した三月事件の計画書。事件が未遂に終わった後、計画書は焼却することになったが、小磯がその一部を軍務局長室の金庫に入れたまま忘れてしまい、後任の山岡重厚が問題の計画書を手に入れたということである。

出典^ 末松太平『私の昭和史』
^ a b c 菅原裕『相沢中佐事件の真相』
^ 永田鉄山軍務局長、現役中佐に斬られる『東京日日新聞』(昭和10年8月13日夕刊).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p1 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 大前信也「陸軍の政治介入の淵源について(U)-陸軍予算と二・二六事件-」(『政治経済史学541』)
^ 岩淵辰雄『軍閥の系譜』
^ 日本近代史料研究会編『亀井貫一郎氏談話速記録』
^ 血盟団、二・二六事件などの記録提出命令(昭和20年12月16日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p345 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

参考文献

菅原裕『相沢中佐事件の真相』経済往来社 昭和46年

岩淵辰雄 『軍閥の系譜』中央公論 1948年

山岡重厚 『予が軍閥観』

原口清澄 『轍(わだち)』修親会 1989年

関連項目

日本史の出来事一覧

外部リンク

『相沢事件
』 - コトバンク










二・二六事件
対立

皇道派荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 柳川平助 - 小畑敏四郎※ - 秦彦三郎 - 山下奉文 - 山岡重厚 - 土橋勇逸 - 牟田口廉也
統制派永田鉄山※ - 東條英機※ - 小磯國昭 - 建川美次 - 梅津美治郎 - 池田純久
満洲派石原莞爾 - 板垣征四郎 - 花谷正 - 片倉衷
清軍派重藤千秋 - 橋本欣五郎 - 長勇 - 小原重孝
(※は「バーデン=バーデンの密約」参加者)
主な首謀者

野中四郎 - 安藤輝三 - 栗原安秀 - 中橋基明 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 香田清貞 - 北一輝 - 西田税
主な被害者

岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕


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