相模鉄道
[Wikipedia|▼Menu]
社紋は車輪と相模の「相」を組み合わせたものである[11]。制定日は1959年(昭和34年)2月1日[注釈 9]となっているが[12]、同種の意匠は開業当初より使用されていた[11][13]

1987年(昭和62年)には創立70周年を記念してシンボルマークが制定された。相鉄グループとして一体感を持たせるため、グループ各社もシンボルマークに社名を添えたマークを使用したほか、運輸業は淡緑、建設業は緑と業種によって色調を統一していた[14]

2006年(平成18年)にはシンボルマークに替わる象徴としてグループマークが制定された[14]。グループマークはアルファベットの「S」を(無限)を想起される形状に図案化し、グループ各社の躍動、融和を表現している。グループマークに使用する2色はグループカラー(コーポレートカラー)でもあり、「SOTETSUブルー」は知性、信頼、安心を、「SOTETSUオレンジ」は活力、きらめき、楽しさを表している。グループマークには「SOTETSUグレー」を使用した「SOTETSU」のロゴと共に「ときめきと やすらぎをつなぐ」というグループブランドメッセージが添えられている[15]

社紋

シンボルマーク
(1987年-2006年)

グループマークとロゴ、グループブランドメッセージ(2006年-)

歴史「相鉄ホールディングス#沿革」および「相模線#歴史」も参照

相模鉄道は、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)相模線である茅ケ崎駅 - 橋本駅間を開業させた鉄道会社である。一方、現在の相鉄本線にあたる横浜駅 - 海老名駅間と、相鉄厚木線(貨物線)にあたる相模国分信号所 - 厚木駅間を開業させた鉄道会社は神中鉄道(じんちゅうてつどう[16])である。1943年昭和18年)に相模鉄道は神中鉄道を吸収合併するが、翌年に元の相模鉄道の路線であった茅ケ崎駅 - 橋本駅間が国有化され、元の神中鉄道であった区間が相模鉄道の路線として留まった。以下に年代を含め詳しく記述する。
相模鉄道と神中鉄道
相模鉄道相模鉄道発起趣意書に掲載された計画路線図

相模鉄道は、神奈川県中央部を南北に横断し東海道線と中央線との間を結ぶ軽便鉄道として計画され、1916年大正5年)6月26日に茅ケ崎駅 - 橋本駅の敷設免許を取得。1917年(大正6年)12月18日に創立総会を開催。翌年1月4日に当時の高座郡茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)で設立された。1921年(大正10年)10月28日に茅ケ崎駅(神奈川県茅ヶ崎市) - 寒川駅(同県高座郡寒川町)間を開業し、1926年(大正15年)4月1日には倉見駅まで、7月15日には厚木駅まで開業し神中鉄道と接続。1931年(昭和6年)4月29日に橋本駅(同県相模原市)まで開業し、全通した。同年11月からは八王子駅東京都八王子市)まで直通列車を走らせるなど意欲的であったが、業績が不振であったため沿線の西寒川に製造拠点(昭和産業一之宮工場 のちの相模海軍工廠寒川本廠)を有していた昭和産業が経営権を取得。1940年(昭和15年)12月には相模原駅 - 上溝駅 - 水郷田名間の乗合自動車事業も開始した。

相模鉄道の株主は昭和産業と東京横浜電鉄(後の東京急行電鉄。現在の東急株式会社および東急電鉄株式会社の前身の一つ)が半々の状態だったが、相模鉄道の取締役でもあった昭和産業社長の伊藤英夫の急死を機に、昭和産業が1941年(昭和16年)6月に持ち株約4万株(相模鉄道の発行済み株式の約40%)を放出し、東京横浜電鉄がこれを取得。これにより相模鉄道は東京横浜電鉄の傘下になった[注釈 10]
神中鉄道神中鉄道

神中鉄道は、鎌倉郡瀬谷村(現・横浜市瀬谷区)の素封家、小島政五郎らが中心となって起業し、1917年(大正6年)12月2日に創立総会を開催、同月15日に神中軌道として設立された。翌々年の1919年(大正8年)6月10日には神中鉄道への商号変更を行っている。こちらは厚木駅から建設を始め、1926年(大正15年)5月12日二俣川駅 - 厚木駅間を開業させた。その2か月後の7月には寒川方面から厚木駅に乗り入れた相模鉄道と接続し、旅客輸送や相模川砂利輸送の営業を行った。

当初は神奈川県横浜市久保町1485番地 官設鉄道保土ケ谷停車場前(現:JR保土ケ谷駅)より、保土ケ谷町元町(現:保土ケ谷区保土ケ谷町3丁目付近)、都筑郡二俣川村(現:二俣川駅付近)、高座郡海老名村大字柏ヶ谷(旧:大塚本町駅付近)を経て、海老名村字河原口2245番地先(現:相鉄厚木線厚木駅付近)に至る計画で、軌道特許を申請していた。しかし1918年大正7年11月24日の定時株主総会で商号を神中軌道からに神中鉄道に、軌道から軽便鉄道に変更することを決議。1923年大正12年11月29日の定時株主総会で終点を横浜停車場の手前の久保町(現:西横浜駅)に変更することを決議。12月11日には、起点を厚木駅に変更して二俣川村から先の区間を橘樹郡保土ケ谷町下岩間(旧:北程ヶ谷駅、現:星川駅)、平沼町(現:天王町駅付近)を経て、横浜停車場(2代目横浜駅)に至る計画として、軽便鉄道の敷設免許を申請した。しかし3か月前に発生した関東大震災で2代目横浜駅が被災したため、駅を移転して現在の位置に3代目横浜駅を設置するという内示を当局から得たため、1926年大正15年6月11日に終点を移転後の横浜停車場(3代目横浜駅)に変更し、1927年昭和2年12月28日に認可を受け、これにより全路線の経路が確定した[17]相模平野を走る神中鉄道の汽車(1927年頃)神中鉄道の機関車(3号機関車)および客車(ハ20形24号客車)

神中鉄道の開業当時は、厚木駅・相模国分駅(現:相模国分信号所)・相模大塚駅(現在のさがみ野1号踏切北側のマンションの場所にあった)・大和駅瀬谷駅二ツ橋駅(三ツ境2号踏切から海老名方50 m付近)・三ツ境・二俣川の各駅で営業を開始した。相鉄社内報(1977年10月)に掲載されている座談会によれば、開業当時の話として「二俣川駅には駅長と駅手4名の合計5名。厚木駅には、運輸課長代理兼務の駅長と助役2名、駅夫4名、出札掛1名、車掌2名がいた。中間駅は、駅長と出札・改札を兼ねた駅手1名の2名のみ。全線でも26名しか駅にはいなかった。」とある。また、「機関庫には、機関士機関助手検査掛、炭水夫がいた。」とも話している。

二俣川駅から先は細切れに延伸されたが、業績は不況下で低迷した。同年12月1日には星川駅(現・上星川駅)まで、1927年(昭和2年)には北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで、1929年(昭和4年)には西横浜駅までと細切れに開業した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:266 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef