相模原市
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しかし、東京の副都心がある新宿駅まで電車で35-40分程度(相模大野駅より小田急小田原線快速急行あるいは橋本駅より京王相模原線経由京王線特急の場合)であり、産業構造の転換により市内の大型工場の撤退が相次いだことで、東京のベッドタウン衛星都市としての面が一層強まっており、政令指定都市の中では業務機能の集中は弱いのが現状である。2015年における東京都への通勤・通学者の割合は24.6%であり、いわゆる「神奈川都民(相模原都民)」が多い。昼夜間人口比率は88と政令指定都市でありながら、東京のベッドタウンとしての側面が強いため、100を下回っている[4]

業務機能の集積が弱いため、中心市街地法で都市核が複数(橋本相模大野)認められている都市である。橋本・相模大野はそれぞれ市の北部・南部の商業・交通の拠点地域としての性格を持つ。当市以外で複数の都市核が認められているのは静岡市福岡県北九州市熊本市の3市のみである。また、旧市域は橋本を中心とした北部地区(相模原北警察署管内)、相模原駅付近・中央地区を中心とした中部地区(相模原警察署管内)、相模大野を中心とした南部地区(相模原南警察署管内)の概ね3地区に分けられている。

橋本駅周辺(相模原市緑区)にリニア中央新幹線(2027年開通予定)の途中駅(神奈川県駅(仮称))の設置が予定されている。
地理旧津久井郡編入前の市域のランドサット衛星写真

2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する東京都町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されていた。近年、東京都の新宿駅へ旧市域南部の相模大野駅から30分程、旧市域北部の橋本駅から40分程で行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとして人口が増加している。2015年度の東京都へ通勤・通学する15歳以上就業者・通学者の割合は24.6%であり、いわゆる「神奈川都民(相模原都民)」が多い。

市内には相模原公園相模原麻溝公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然と触れ合える環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、更に多数の大学を抱える東京都八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。

編入した旧津久井郡4町のうち、旧城山町と旧津久井町橋本駅を最寄り駅として利用しており、国道413号津久井街道)や路線バス(神奈中バス)を介して合併以前の相模原市域との結びつきが強いのに対し、旧相模湖町と旧藤野町は相模原市中心部よりも、JR中央本線国道20号甲州街道)を介して隣接する八王子市(東京都)や上野原市山梨県)との結びつきの方が強い。
地形

相模川左岸の相模原台地上に位置する東部の平坦な旧相模原市域(中央区・南区および緑区東部)と、南の丹沢山地と北の高尾山陣馬山などの間に広がる山地を相模川などが刻み、河岸段丘上にわずかな平坦面が散在する西部の津久井地域(旧津久井郡、緑区の大半)とに分けることができる。人口は東部に集中している。ただし、津久井地域のうち旧城山町東部は地形的に連続する旧相模原市域と合わせて相模原台地の一部として理解するのが適当である。直下には伊勢原断層が所在している。新昭和橋付近(厚木市上依知)から望む相模原台地
相模原台地

相模野台地とも呼ばれる。相模川が作った扇状地隆起して形成された洪積台地である。西側の相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達している。

大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段(相模原面)が最も広く、旧市域の半分以上を占め、旧城山町東部の大半もこの段丘面上に広がる。緑区川尻(旧城山町)の川尻八幡宮付近の標高約180mを最高点に南東へ向かって徐々に高度を下げ、緑区橋本六丁目の神明大神宮付近で約140m、南区東大沼二丁目の大沼神社付近で約100m、南区相南三丁目の東海大学付属相模高等学校付近で約85mとなり、南の大和市や座間市に続く。段丘面上は平坦ではあるが水に乏しく、利用が進まずに原野が広がっていた。相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。

江戸時代以降に行われた新田開発によって雑木林の広がる景観となった。

日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が当時の内務省神奈川都市計画地方委員会野坂相如、浅野英ら)によって行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し、完成した。そして1960年代以降急速な都市化が進行した。

現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後、米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。

緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれる。「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川姥川道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。

下段(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}陽原(みなばら)面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占める。

これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られている。

当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えている。
山地
主な山地


丹沢山地

主な山と登山コース[5]


丹沢主脈

丹沢山

蛭ヶ岳(神奈川県最高峰)- 1673m

臼ヶ岳


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