相模原市
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相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。

江戸時代以降に行われた新田開発によって雑木林の広がる景観となった。

日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が当時の内務省神奈川都市計画地方委員会野坂相如、浅野英ら)によって行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し、完成した。そして1960年代以降急速な都市化が進行した。

現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後、米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。

緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれる。「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川姥川道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。

下段(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}陽原(みなばら)面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占める。

これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られている。

当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えている。
山地
主な山地


丹沢山地

主な山と登山コース[5]


丹沢主脈

丹沢山

蛭ヶ岳(神奈川県最高峰)- 1673m

臼ヶ岳

焼山

黍殻山

大室山


東海自然歩道[6]

嵐山相模嵐山

石老山

袖平山


関東ふれあいの道“鳥のみち”[7][8][6]

小仏城山

景信山

陣馬山[9][10]


関東ふれあいの道“富士見のみち”、別名笹尾根縦走路[11]

醍醐丸

茅丸[9](藤野町最高峰)- 1019m 別名は茅丸山

生藤山[9]

三国山


石砂山- 石老山から縦走可能。

津久井城山

河川
主な川


阿津川

姥川

大沢川

串川

相模川

道志川

道保川

八瀬川

湖沼
主な湖


相模湖

津久井湖

城山湖

宮ヶ瀬湖

台地

相模原台地


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