相撲
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天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭大隅隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある[8]

持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。5月21日。隼人が相撲を取るのを西のの木の下で観た、とある[9]。「相撲節会」を参照

奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが[10]、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる[11]。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる[12][13]。「神事相撲」を参照

一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている[14]
中世「武家相撲」を参照

相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた[15]。「土地相撲」を参照

続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という[16]
近世「勧進相撲」を参照江戸時代の勧進大相撲興行の図(1843年頃)

江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた[17]

江戸の爛熟期である明和安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した[18]。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった[1]。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた[1]天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした[19]
近代侍従と相撲を取る皇太子時代の昭和天皇(右)「大相撲」を参照

明治文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ[20]。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。

平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道柔道の三種を基本として加味された。

2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった[21]
神事としての相撲
神事との関係性萬華城と剛天佑(2007年)奉納相撲(東庄町諏訪神社


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