相応院_(蒲生氏郷正室)
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」と述べている[4]。谷徹也は『藩翰譜』の「同じき冬姫を給て」という記述の誤読とし、明治41年(1908年)に刊行された『国史大辞典』の記述によって広く世間に広まったとしている[5]。
脚注^ a b c d 渡辺江美子「織田信長の息女について」『国学院雑誌』89巻11号、1988年。
^ 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』東京堂出版、2000年、244-245頁。
^ 今村義孝『蒲生氏郷』人物往来社、1967年、53頁。 (吉川弘文館から2015年に再版)
^ 和田裕弘「織田信長家臣団の女性たち」『歴史読本』54巻4号、2009年。
^ 谷徹也「総論 蒲生氏郷論」谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』 戒光祥出版、2021年、12頁。 ISBN 978-4-86403-369-5。
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