相国寺
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境内庫裏浴室(宣明)

境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。

法堂(重要文化財) - 無畏堂とも呼ばれるが、現在、当寺には仏殿がないために仏殿も兼ねているため本堂とも呼ばれる。慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が米1万5千石を寄進して再建された。この時点で5回目の再建であった。日本にある法堂建築としては最古のものである。本尊である釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像、迦葉尊者像は運慶による作とされている。天井にある蟠龍図は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。最初に建てられたのは明徳2年(1391年)であり、法雷堂と称された。

開山堂(開山塔、京都府指定有形文化財) - 開山・夢窓疎石像を祀る堂で、桃園天皇皇后恭礼門院の女院御所内にあった黒御殿を文化4年(1807年)に下賜されて現在地に移築したもの。礼堂と祠堂で構成されている。創建時の開山堂は資寿院と呼ばれていた。

開山堂庭園「龍渕水の庭」 - 奥が山水庭園で、手前が枯山水庭園となっている。山水庭園にはかつては水が流れていた。

方丈(京都府指定有形文化財) - 文化4年(1807年)再建。扁額「方丈」は中国の名筆家・張即文の筆。方丈と周りの杉戸絵、琴棋書画の間の琴棋書画図、聴呼の間の八仙人図は原在中の筆。竹の間の竹図は浄土宗の僧・玉?の筆。梅の間の老梅図は伊藤若冲の弟子で相国寺第115世・維明周奎の筆。御所移しの間にある吉野山桜図は御所の清涼殿より拝領したもので、土佐光起の筆ともされている。

大玄関 - 1883年明治16年)に設けられたもので、それまでは韋駄天を祀る堂であったと考えられている。

方丈前庭 - 白砂が敷かれている。

方丈勅使門(京都府指定有形文化財)

裏方丈庭園(京都市指定名勝) - 苔庭に石の川が造られている。

庫裏(京都府指定有形文化財) - 香積院とも呼ばれる。文化4年(1807年)再建。

承天閣美術館 - 相国寺と塔頭寺院(鹿苑寺慈照寺など)の文化財を収蔵展示する施設で、1984年昭和59年)4月に開館した。

般若林 - 本来は境内のアカマツ林の名称であったが、現在は演劇塾「おさだ塾」の本拠地の建物をいう。

浴室(京都府指定有形文化財) - 宣明(せんみょう)とも呼ばれる。慶長4年(1596年)再建。蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる。創建は応永7年(1400年)頃。(右の画像参照)

天響楼(鐘楼) - 2011年平成23年)夏の建立。中国の開封にある大相国寺(中国語版)により二つ鋳造された梵鐘のうちの一つ。日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもの。

鎮守八幡宮 - かつては現在の上京区御所八幡町にあった。

後水尾帝歯髪塚 - この地には、もともと承応2年(1653年)に後水尾上皇によって再建された大塔があり、その上層部に後水尾上皇の歯と髪を納めていた。しかし、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失したため、この塚が造られた。

経蔵(京都府指定有形文化財) - 万延元年(1860年)再建。この地にはもともと宝塔が建てられていた。

足利義政の墓

藤原定家の墓

伊藤若冲の墓

弁天社(京都府指定有形文化財) - 17世紀後半の建築で、もともとは久邇宮邸で祀られていたもの。1880年(明治13年)に久邇宮朝彦親王によって寄進され、移築された。

宗旦稲荷社 - 千宗旦に化けていた狐・宗旦狐を祀る。

洪音楼(鐘楼、京都府指定有形文化財) - 天保14年(1843年)再建。袴腰付鐘楼。梵鐘は寛永6年(1629年)に鋳造されたものを寛政元年(1789年)4月に買い取ったもの。

仏殿跡 - 礎石と土壇が残る。以前の建物は天文20年(1551年)の石橋の乱で焼失した。

三門跡 - 礎石と基壇が残る。以前の建物は慶長14年(1609年)に徳川家康によって寄進されたものだったが、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失した。

方丈池

天界橋

勅使門(京都府指定有形文化財) - 御幸門とも呼ばれる。慶長年間(1596年 - 1615年)再建。

総門(京都府指定有形文化財) - 寛政9年(1797年)再建。

法然水 - 法然ゆかりの井戸。境内の外、北側にある。

塔頭寺院

かつては臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括する役所鹿苑院があった。足利義満が鹿苑院の院主である絶海中津僧録に任命して以来、その院主が僧録を兼務し鹿苑僧録として権勢を振るうことになった。明治時代初期の廃仏毀釈の嵐に見舞われて廃絶。
山内塔頭

大光明寺

豊光寺 - 西笑承兌が豊臣秀吉追善のため創建。天明の大火で焼失し、廃絶の危機にあったが、明治15年(1882年荻野独園が、慧林院とその子院霊香軒の客殿を移築し再興。


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