盧溝橋事件
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概要1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[9]盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真宛平県城から出動する中国兵第29軍第37師団が盧溝橋で日本軍と対峙。中国軍の戦闘のパノラマ模型。事件後に日本人が撮影した盧溝橋

1937年7月6・7日、豊台に協定上の合意なく駐屯していた日本軍支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この演習については日本軍は7月4日夜、中華民国側に通知済みであった。[要出典]

これに対し中国側は許可を出してはいないが、北京議定書では議定書に基づく駐留軍には演習権が認められており、中国側の許可は不要であった。ただし、第3大隊は北京議定書に示されていない豊台に駐留していた。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射したため[10]、演習を中止し、集合ラッパにて部隊を集めた際にさらに十数発の銃撃を受け、点呼してみると1名の兵士がいなくなっていた[11]。そのため清水中隊長はこの件を乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた[12]

事態を重く見た日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斎及び冀察外交委員会専員林耕宇等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに盧溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、盧溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。[要出典]この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。[要出典]

午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は8日朝現地に到着して盧溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の原状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して盧溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても盧溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。[要出典]

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を盧溝橋に派遣し、中国軍部隊の撤退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撤退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵力を増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々盧溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き盧溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。[要出典]この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。[要出典]

11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは盧溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び盧溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、盧溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表の張自忠・張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。
事件前の状況
コミンテルンの人民戦線と中国「#共産軍の山西省攻撃と支那駐屯軍増強」および「#共産党の策動」も参照

1935年7月25日から開会された[13]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[14]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[15]コミンテルン指令1937年も参照)。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[15]。コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[16]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの抗日運動を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も?介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[17]敗戦革命論も参照)。西安事件翌月の1937年1月6日に中華民国南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[18]
中華民国による中央集権化と抗日の動き

1931年に起きた満洲事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、中華民国の国民政府満洲国も日本の満洲占領も認めてはおらず、緊張状態にあった[要出典]。1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[19]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[20]、金融問題によって反?介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[21]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[22]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[23]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[24]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[25]


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