.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}盧泰愚(ノ・テウ)
???
1988年
大韓民国
第13代 大統領
任期1988年2月25日 – 1993年2月24日
首相李賢宰
盧泰愚
各種表記
ハングル:???(南)
???(北)
漢字:盧泰愚
発音:ノ・テウ(南)
ロ・テウ(北)
日本語読み:ろ たいぐ
ローマ字:No Tae-u(南、2000年式)
No T'aeu(南、MR式)
Ro Tae-u(北、2000年式)
Ro T'aeu(北、MR式)
英語表記:No Tae-woo(南)
Roh Tae-woo(北)
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盧 泰愚(ノ・テウ、ハングル: ???、1932年12月4日 - 2021年10月26日[1])は、大韓民国の軍人、政治家。第13代大統領(在任: 1988年 - 1993年)、同国最後の軍人出身の大統領であり、軍での最終階級は大将。第12代国会議員[2]。ハナフェ[3]の一員。本貫は交河盧氏(祖籍は山東省[4])。号は「庸堂」(ヨンダン、??)。仏教徒[2]。 1932年12月4日、日本統治時代の大邱で生まれた。朝鮮戦争勃発に伴い入隊し、陸軍士官学校で全斗煥(のちに大統領)と同期(11期)だった[5]。卒業後は第9空輸特戦旅団長・第9歩兵師団長などを歴任する。この間、全斗煥らとハナフェ(ハナ会・一心会)を結成した。 第9師団長在任中(階級は陸軍少将)の1979年12月12日に、全斗煥らハナフェのメンバーとともに粛軍クーデターを起こす。この際に米韓連合司令部の同意なしに第9師団第29連隊をソウルに展開させたことで、粛軍クーデター成功の一翼を担った。 クーデター後は解任された張泰玩陸軍少将の後任として首都警備司令官に就任した後、中将に昇進して国軍保安司令官を務めた。1981年に陸軍大将に昇進後、文民になるため退役(予備役編入)。政務第二長官を経て体育相・組織委員長としてソウルオリンピックの実務全般を取り仕切った。 1982年に当時の警察トップである内務部長官に就任した。これは同年発生した禹範坤による大量殺人事件の発生直後に当時の徐廷和
プロフィール
この人事によって盧は政界への足がかりを掴むことに成功した。
1987年、高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある」と声明(6・29民主化宣言)を発表。その直後、1971年大韓民国大統領選挙以来16年ぶりに行われた民主的選挙で民主正義党から立候補し、文民出身候補が金泳三・金大中の2人に別れたため韓国大統領に当選した。選挙のときは親しみやすさと自身の耳の大きさ(韓国では話を聞く人は耳が大きいとされる)を前面に押し出し、朴正煕政権から続いていた軍人出身大統領と異なる印象を国民に持たせることに成功した。翌1988年2月25日に第13代大韓民国大統領に就任した[6][7]。
大統領就任後、前大統領であった全斗煥政権時代の不正容疑を徹底追及する一方で、激しく対立していた金泳三・金鍾泌を与党に取り込むなど国政の安定を図った。
外交面ではマルタ会談での冷戦終結を受けて、「北方外交」を提唱して共産圏との関係改善に乗り出し、1990年にソビエト連邦、1992年には中華人民共和国(中韓国交正常化)と国交を樹立した。なお、中国との国交樹立により韓国は中華民国(台湾)とアジアで最後に断交した国となった。
対日関係では1990年に民主化後の大統領として初めて来日し、当時の皇太子明仁親王や海部俊樹首相と会談した。但しこの際の共同声明の内容に対し、自民党内から批判の声が上がった(詳細は小沢一郎を参照)。また従軍慰安婦問題を対日遡上に乗せた初の大統領である。翌年海部が訪韓し盧泰愚と会談。その席で、懸案であった在日韓国人の指紋押捺廃止を要求し、後に実施された。
朝鮮統一問題では、1991年9月17日には朝鮮民主主義人民共和国との国際連合南北同時加盟を実現し、同1991年12月13日に南北基本合意書を締結している。
1993年2月24日の大統領退任後、1995年に政治資金隠匿が発覚し拘束された。一審で無期懲役の判決を受け1995年11月16日にソウル拘置所に収監された[8][9]。控訴審では懲役15年、2628億ウォンの追徴金を言い渡された。その後粛軍クーデター・光州事件でも再捜査を求める世論が起こり、金泳三大統領は後粛軍クーデターと光州事件の再捜査を指示した。1996年から捜査が行われ、1997年4月17日にそれらを含めた公判で最高裁判所は懲役17年、追徴金2688億ウォンを宣告した[10][11]。1997年12月22日に特赦された[12][13]。
2012年6月、大統領在任中に作った秘密政治資金の一部を、長男の妻の父親に預けたとして、検察に捜査を依頼した[14]。
2012年12月12日、不正蓄財や追徴金未納などに不満を抱いた男(2007年三田渡碑に落書きをした男と同一人物)によって大邱市内の生家が放火された。シンナー2リットルを撒いてライターで火を付けられたが、床やテレビ、ドアの一部を焼いただけで直ぐに鎮火した。後に逮捕された男には懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決が言い渡された。
2013年9月、未納となっていた追徴金230億ウォンについて、親族が代納すると発表した。この後、同じく追徴金の未納があった全斗煥元大統領側も、完済を発表した。
2010年代に入ると病気で入院した後、言葉もきちんと話すことが出来ないなど外部活動に出る面はなかったが、息子を通じて光州事件に対する謝罪を表明し、毎年光州墓地を参拝させた。
2021年10月26日、入院先のソウル特別市内の病院にて88歳で死去[15][16][17][18][19]。