益田孝
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増田卓 (野球)」、「益田隆司」、あるいは「増田孝」とは別人です。

ますだ たかし
益田 孝
益田 孝
生誕1848年11月12日
日本佐渡国雑太郡(現在の新潟県佐渡市相川)
死没 (1938-12-28) 1938年12月28日(90歳没)
職業実業家
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スフィンクスで記念撮影する遣欧使節団一行(1864年)、アントニオ・ベアート撮影益田 孝

益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日1848年11月12日) - 昭和13年(1938年12月28日)は、日本実業家男爵三井合名理事長。

草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた。明治維新後、世界初の総合商社三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。
経歴

佐渡国雑太郡相川町(現在の新潟県佐渡市相川)に生まれる。幼名は徳之進。父の鷹之助は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任。孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した[1]

明治維新後は明治2年(1869年)から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務して多くの商取引を見聞したのち、自ら中屋徳兵衛と名乗って輸出商を手掛けた[2]。この時期仕事仲間から紹介された大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治5年(1872年)に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった[2]。翌明治6年(1873年)に尾去沢銅山汚職事件で井上が下野すると益田も続いて職を辞した。翌明治7年(1874年)には、英語に堪能だったこともあって井上が設立した先収会社の東京本店頭取(副社長)に就任。明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊。同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げた。

三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋大学出身者が優勢を占めた。三井内部では、工業化路線を重視した中上川彦次郎に対して商業化路線を重視したとされている(但し、後述の三井鉱山の設立や團琢磨を重用したように工業化路線を軽視したわけではなかった)[3]。さらに、三井財閥総帥であった中上川の死後実権を握ると、経営方針の中で、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾出身者を中心とする学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総帥には團琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた[4]

また、工部省から三池炭鉱の払下げを受け、明治22年(1889年)に「三池炭鉱社」(後の三井鉱山)を設立、團を事務長に据えた。明治33年(1900年)に台湾製糖設立。大正2年(1913年)、辞任。

大正7年(1918年)、男爵に叙される。昭和8年(1933年)、家督を長男に譲り財界の第一線から引退したが、わずかに三井合名顧問、自ら立ち上げた益田農事株式会社社長の肩書は残した。昭和13年(1938年12月18日風邪気管支炎を併発して神奈川県小田原市の自宅にて療養を開始。同年12月27日に昏睡状態に陥り、翌12月28日に死去[5]


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