三国時代には劉備が益州を占拠し蜀(蜀漢)を建国したが、魏に攻め滅ぼされた。263年(景元4年)には州北部に梁州が置かれ、271年(泰始7年)には西晋により州南部に寧州が設置され、益州の管轄区域は大幅に縮小されている。西晋の益州は蜀郡・?為郡・?山郡・漢嘉郡・江陽郡・朱提郡・越?郡・??郡の8郡44県を管轄した[4]。
五胡十六国時代には李特により益州において成漢が建国されたが、東晋により攻め滅ぼされた。その後?縦が益州で反乱を起こし、後蜀を号したが、まもなく鎮圧された。
隋代が廃止され、その管轄県の伍城県が益州に移管された。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、益州の属郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、益州は蜀郡と改称され、下部に13県を管轄した[5]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷
区分開皇元年区分大業3年
州益州新州郡蜀郡
郡蜀郡?為郡九隴郡
618年(武徳元年)、唐により蜀郡は益州と改められ、成都・?・九隴・?・双流・新津・晋原・青城・陽安・金水・平泉・玄武・綿竹の13県を管轄した。742年(天宝元年)、益州は蜀郡と改称された。757年(至徳2載)、蜀郡は成都府に昇格し、剣南西川節度使
が置かれた[6]。981年(太平興国6年)、北宋により成都府は益州に降格された。988年(端拱元年)、益州は成都府の称にもどされた。994年(淳化5年)、成都府は益州に降格され、剣南西川節度が廃止された。1060年(嘉祐5年)、益州は成都府の称にもどされた。成都府は成都府路
に属し、成都・華陽・新都・?・双流・温江・新繁・広都・霊泉の9県を管轄した[7]。元により成都府は成都路と改められた。成都路は四川等処行中書省に属し、録事司と9県7州州領11県を管轄した[8]。
1371年(洪武4年)、明により成都路は成都府と改められた。成都府は四川省に属し、6州25県を管轄した[9]。
清のとき、成都府は四川省に属し、3州13県を管轄した[10]。
1913年、中華民国により成都府は廃止された。
脚注^ 『漢書』地理志上
^ 『後漢書』郡国志五
^ 劉焉政権について― 後漢末期の益州と関中・河西回廊. 創価大学人文学会. (2017-03). pp. 63
^ 『晋書』地理志上
^ 『隋書』地理志上
^ 『旧唐書』地理志四
^ 『宋史』地理志五
^ 『元史』地理志三
^ 『明史』地理志四
^ 『清史稿』地理志十六
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