益子直美
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

テレビアニメ『アタックNo.1』にあこがれ、地元の金町中学校に入学と同時にバレーボールを始める[3]。中学3年生で、東京都選抜に選ばれる。[4]

1982年、地元の共栄学園高等学校に進学した。1984年第15回春高バレーでは、バックアタックと、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ジャンピング・ドライブサーブ[要出典]を武器に、八王子実践高等学校の連勝記録(当時)を106で止め[要出典]、準優勝に輝く。同年、高校3年生で全日本代表に選ばれた。「下町のマコちゃん」のニックネームで、大林素子らと共に1980年代後半から1990年代前半の女子バレーボール界で活動した。

1985年イトーヨーカドー女子バレーボール部に入団した。1990年斎藤真由美らと共に、第23回日本リーグで念願の初優勝に貢献した。1991年度には主将を経験した。その後も全日本代表メンバーに選出されるが、オリンピックには出場できなかった。

1992年、現役を引退した。
引退後

現役引退後はテレビ局から1992年バルセロナオリンピックの出場選手の事前合宿レポートを務め[5]、イトーヨーカドーアシスタントコーチを務めた後、1993年に退社し、1996年にはテレビ朝日アトランタオリンピック関連のメインキャスターを務めた[6]

1997年4月4日から2001年4月5日、NHKの『トップランナー』の司会をアーティストの大江千里とともに務めた。

2015年9月17日、淑徳大学千葉キャンパスにて同大学バレーボール部監督就任契約の調印式を行い、10月から就任した。23年ぶりの現場復帰となった[7]。6部リーグで低迷していたチームを2年で4部リーグに浮上させた[8]

2019年1月13日に福岡県宗像市で行われた「益子直美カップ小学生バレーボール大会」で「監督が絶対怒らない」が取り上げられた[9]

2021年6月17日、日本バレーボール協会理事に就任することが発表された[10]

2023年6月23日、女性初の日本スポーツ少年団本部長に就任した[11]。また、日本スポーツ協会副会長にも就任した[12]
私生活

2002年にテレビ番組の取材で知り合った12歳年下の自転車ロードレーサー・山本雅道と、約1年半の交際期間を経てプロポーズを受け、2006年12月5日に婚姻届を提出し40歳で結婚した[13]。自身のホームページ(下記外部リンク参照)上で報告した。挙式・披露宴は12月23日に行った。夫の山本について「年下なのですが、とってもしっかりしていて、頼りがいがあります」と語り、「40まで待ってて本当によかったなあ」と語っている[13]。夫の地元である神奈川県藤沢市で生活し[14]、2013年6月には同市内に夫とともにサイクル・プロショップを開店したが[15]、2020年に閉店し、2020年3月7日より加藤司馬が自転車専門店「K-BASE(ケーベース)」として運営している[16]

42歳の時子宮ポリープの切除手術を受けたのを機に不妊治療に挑み、自身の45歳の誕生日となる2011年5月20日をもって不妊治療を「卒業」した[14]

50歳を迎えて少しの運動で息切れを感じるようになったことで、2017年3月半ばに病院を受診して不整脈の一種である心房細動と診断を受け、重篤な症状ではないものの脳梗塞心筋梗塞を引き起こす危険性があることから手術を決断した。同年4月13日にカテーテルアブレーション(心筋焼灼術)による手術を受けた[17][18]。2時間半に及ぶ手術は成功し、2か月後には淑徳大学バレーボール部の監督に復帰している[8][19]
人物

高校時代、全日本に選ばれた選手の卒業後は当時日本リーグの頂点に君臨していた
日立に進むのが自然の流れ[要出典]であり、益子も合宿には参加していたが、選手層の厚さと練習のきつさを理由に日立入りは断念し、打倒日立を目標に掲げ若手中心だったイトーヨーカドーを選んだ[20]

イトーヨーカドー入り後は競技を楽しむことができずに悩むことが多く、「早く引退したい」「優勝という結果を出せば引退を許される」とプレーしていたほどだった[21][22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef