安田生命保険が1970年(昭和45年)ごろにコンピュータによる個人情報管理のシステムを構築したとき、作業に携わった技術者たちは、西暦1900年(明治33年)を「00年」として年を処理すると、顧客の生年月日など西暦1899年(明治32年)以前の情報の処理に不都合が生じることに気づき、あえて西暦の使用を避けて、皇紀2600年(西暦1940年・昭和15年)を「00年」として用い、さらに負の数を皇紀2500年(西暦1840年・天保11年)までの100年分を処理することのできるパック10進数を採用することにした。この結果、偶然ではあるが、2000年問題の影響を回避することができたと言われる。実際に2000年問題で安田生命保険の業務になんらかの支障や影響が生じたかどうかは公表されていない[40][41]。
インドネシア独立宣言文10万ルピア紙幣に印刷された独立宣言 右端に「05」の数字が見える
1945年(昭和20年・皇紀2605年)8月17日、インドネシアの独立がスカルノおよびモハマッド・ハッタによって宣言された。
大日本帝国軍政下のインドネシアでは、皇紀が使われていた(元号は用いられていなかった)。また、インドネシア独立宣言草案は、大日本帝国軍政時代に設置された独立準備委員会において起草、採択された。これは解放後に成立したもので、既に日本の影響力はなくなっていたが、インドネシア独立宣言の日付は、皇紀2605年の下2桁と同じ、「05年」と記載されている[42][注 22]。スカルノの母はバリ島出身であり、皇紀は I Ketut Bangbang Gede Rawi(生没年1910-1989)が創始した市販の『バリ暦』にはバリ暦(ウク暦、サカ暦)、西暦、回暦(ヒジュラ暦)、干支、農暦(旧暦)、ウィンドウと共に併記されていた。
1998年(平成10年)に今井敬経団連会長(当時)がインドネシアのユスフ・ハビビ大統領と会談した[43]際に、ハビビが今井に独立宣言を見せて、日付の年が「05」となっているのは日本の皇紀2605年だと説明した[44]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元二千五百三十三年」が使用されている。『太陽暦. 明治6年(1873年)