昭和に入って以降、第二次大戦中まで、日本の陸海軍(旧日本軍)が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。
航空機を例に取ると「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば「零式三座水上偵察機」「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。詳細は「軍用機の命名規則 (日本)」を参照 大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(西暦1927年、昭和2年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌年(1928年・昭和3年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。 皇紀2601年(西暦1941年・昭和16年)以降は、例えば一式戦闘機(通称隼)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。 銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」「一式機動四十七粍速射砲」など)。 また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた。例:明治38年(1905年)採用を示す「三八式歩兵銃」など。 大日本帝国海軍の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(西暦1929年・昭和4年)採用であることを示す「八九式飛行艇」「八九式艦上攻撃機」より使用されている。ただ、実際には両機とも皇紀2592年(西暦1932年・昭和7年)に制式採用。それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。 また、海軍では皇紀2602年(西暦1942年・昭和17年)の「二式水上戦闘機」「二式陸上偵察機」等を最後に航空機の年式名称を取り止め「紫電」「彩雲」「天山」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「隼」「飛燕」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。 なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については「十二試艦上戦闘機」「十八試局地戦闘機」など、一貫して元号が用いられている。 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部は小学校の歴史に関する授業を停止。1946年(昭和21年)10月12日に授業が再開されたが、新しい教科書『くにのあゆみ』では皇紀の表記が廃され、西暦表記に改められていた[27]。 宮内庁は、庁内関係部署および職員の事務参考用として[28]、歴代の天皇・皇族の陵墓についてまとめた書籍である『陵墓要覧』を、戦後では1956年(昭和31年)、1974年(昭和49年)、1993年(平成5年)、2012年(平成24年)に刊行している[29]。それら全ての版において、歴代の天皇・皇族の崩御・薨去の年は、皇紀で表記されている[30][31][32][33]。また、『陵墓要覧』では、歴代の天皇・皇族の式年(式年祭を行う年)を並べた「式年表」も、全ての版で皇紀の表記がされており[34][35][36][37]、2012年(平成24年)に刊行された『陵墓要覧 第6版(最新版)』においては、式年が皇紀2721年(西暦2061年)まで記載されている[38]。 日本光学が戦後に試作から初めて製造した「ニコン」(ニコンI型)に始まるカメラの個体に付けられた製品番号(シリアル番号)は、先頭が「6」から始まる。
陸軍
海軍
教科書の表記
戦後に皇紀が用いられた例
宮内庁
ニコン
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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