皇紀
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その一つに、『日本書紀』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命説[注 18]を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[注 19](詳細は辛酉#辛酉の年を参照)。

辛酉の年は60年に一度必ずやってくるにもかかわらず、紀元前660年という紀年が選ばれた理由についても歴史学者は様々な仮説を立てている。明治の歴史家として名高い那珂通世は、古代史上で大変革の年であった推古天皇9年(601年)から1260年遡った辛酉の年を即位紀年としたと述べた。推古9年が大変革の年であったという理由として、その著『上世年紀考』で「皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子大政ヲ取リ給ヒ、治メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ憲法ヲ定メ」と述べている。1260年というのは60年を「1元」、21元(1260年)を1蔀(ほう)として、1蔀ごとに大いに天命が改まるという讖緯家の思想によるものである[20]

さらに有坂隆道は『古代史を解く鍵 暦と高松塚古墳』で、推古9年は革命とは無縁の平穏な年であったとして、天武天皇10年(681年)から1340年遡った年を神武紀年としたと論じた。天武10年は天皇が「帝紀及び上古の諸事を記し定め」させると詔した年であり、わが国初の正史編纂という画期的な年を基準としたというのである。1340という数字は当時最新の暦であった儀鳳暦の周数(総法。天文の運行などを循環する数字で表したもの)であり、紀元前660年は天武10年から1340年遡った年であることから紀元として定められたという[21]

小川清彦の分析によれば日本書紀の朔日干支の記述は665年に作成された儀鳳暦(日本で最初に伝わったであろうより古い元嘉暦ではない)とよく合致するとされる。儀鳳暦より古い時代の暦は、19太陽年が235朔望月と等しいとして19年に7回の閏月を入れるメトン周期が用いられているが、このメトン周期は紀元前433年アテナイの数学者のメトンによって見出されたとされ、日本書紀にあるように紀元前660年に日本で太陰太陽暦が用いられていたとすればより原始的な太陰太陽暦でなくては時代が合わない。しかしそうした暦法を想定すると実際の日本書紀の朔日干支の記述と合致させることは難しい。渋川晴海は日本書紀暦考にて辻褄合わせを試みているが、内田正男は日本書紀暦日原典にて「渋川晴海のように,架空の暦法を創造し,しかも度々の改暦を想像しない限り,閏字脱落のつじつまを合わせることはできない。問題をわざわざ複雑にする必要はない。儀鳳暦(平朔)が用いられたことを認めるべきであろう」と評している。
神武天皇即位紀元が使われている現行法令

「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(明治5年太政官布告第337号、いわゆる「改暦ノ布告」)では、改暦によって導入された太陽暦の閏年について4年毎に置くことしか述べておらず、グレゴリオ暦の置閏法の例外的規則[注 20][22]に相当する規定を置いていなかったが、その後1898年に発された「閏年ニ関スル件」(明治31年勅令第90号)[注 21]により、日本の暦法はグレゴリオ暦の置閏法と同等の置閏法をもつこととなった[23]。この勅令における閏年の判定は西暦ではなく皇紀(神武天皇即位紀元)によっている。

明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件)神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

現代の表記に直すと次の通りである。

神武天皇即位紀元年数(皇紀年数)を4で割って、割り切れる年を閏年とする。ただし、皇紀年数から660を引くと100で割り切れる年で、かつ100で割った時の商が4で割り切れない年は平年とする。

これは、西暦年数から閏年を判定する方法と同値である。

なお、この勅令は、1947年の法律を経て、法令として、現在でも効力を有する[24]。また、西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものである[25]。したがって、閏年の判定には、現在も神武天皇即位紀元が用いられている[26]
紀元2600年記念行事「紀元二千六百年記念行事」を参照
制式名など

昭和に入って以降、第二次大戦中まで、日本の陸海軍(旧日本軍)が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。

航空機を例に取ると「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年昭和15年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば「零式三座水上偵察機」「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。詳細は「軍用機の命名規則 (日本)」を参照
陸軍

大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(西暦1927年昭和2年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌年(1928年昭和3年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機一〇〇式司令部偵察機一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。

皇紀2601年(西暦1941年昭和16年)以降は、例えば一式戦闘機(通称隼)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。

銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」「一式機動四十七粍速射砲」など)。

また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた。


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