日本国外の歴史書では『宋史』日本国伝(『宋史』卷491 列傳第250 外國7日本國[15])に「彦瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、ここでは神武天皇の即位年は周の僖王の時代[注 10]の甲寅(紀元前667年)としている[注 11][注 12]。一方、三善清行は革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし[注 13]、これは僖王3年に当たると述べている[16]。
明治維新後、前述のように神武天皇即位が紀元と定められ、上記の『日本書紀』の記述に基づいて紀元と元号との対応関係が規定され、公文書などに用いられることとなった。また、神武天皇が即位したとされる「辛酉年春正月庚辰朔」はグレゴリオ暦の紀元前660年2月11日に比定された[注 14]。これに基づいて政府は「年中祭日祝日休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第334号)[17]で2月11日を紀元節と定めた(詳細は「紀元節」を参照)。 しかしながら『日本書紀』の記述を素朴に信頼し、神武天皇の即位を西暦紀元前660年にあたる年とすることには江戸時代から批判がなされてきた。たとえば、藤貞幹は『衝口発』[注 15]で、神武天皇元年辛酉は周の恵王17年(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓との年紀に符合しないことを述べた[18]。 神武天皇の即位を西暦紀元前660年とすることを否定する根拠の一つに『古事記』や『日本書紀』において初期の天皇の在位年数が不自然に長く、年齢も非現実的な長寿とされていることが挙げられる。 考古学の分野では西暦紀元前660年は、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、平成15年(2003年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる[注 16]。弥生時代前期にはまだ古墳は一般的でない。 寺沢薫は卑弥呼即位を3世紀初頭と見て「列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国から東遷したという言い方もできるかもしれない」とし、東遷の史実性には限定的ながら理解を示すが、年代は大幅に修正している[19][注 17]。 神武天皇の即位の年は辛酉年とされるが、中国で干支紀年法が確立したのが太初暦が採用された紀元前104年あたりとされる。それ以前には木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく太歳紀年法が用いられており、11.862年である木星の公転周期から約86年にひとつずれる「超辰」が行われた。こうした中国での干支紀年法の成立の歴史を鑑みるに、紀元前660年相当の時代を干支紀年法で記載しているというのはオーパーツと言える。 なぜ『日本書紀』において神武天皇の即位の年が西暦紀元前660年にあたる年に設定されたのかについて、江戸時代から様々な説が唱えられてきた。その一つに、『日本書紀』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命説[注 18]を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[注 19](詳細は辛酉#辛酉の年を参照)。 辛酉の年は60年に一度必ずやってくるにもかかわらず、紀元前660年という紀年が選ばれた理由についても歴史学者は様々な仮説を立てている。明治の歴史家として名高い那珂通世は、古代史上で大変革の年であった推古天皇9年(601年)から1260年遡った辛酉の年を即位紀年としたと述べた。推古9年が大変革の年であったという理由として、その著『上世年紀考 さらに有坂隆道は『古代史を解く鍵 暦と高松塚古墳』で、推古9年は革命とは無縁の平穏な年であったとして、天武天皇10年(681年)から1340年遡った年を神武紀年としたと論じた。天武10年は天皇が「帝紀及び上古の諸事を記し定め」させると詔した年であり、わが国初の正史編纂という画期的な年を基準としたというのである。1340という数字は当時最新の暦であった儀鳳暦の周数(総法。天文の運行などを循環する数字で表したもの)であり、紀元前660年は天武10年から1340年遡った年であることから紀元として定められたという[21]。 小川清彦の分析によれば日本書紀の朔日干支の記述は665年に作成された儀鳳暦(日本で最初に伝わったであろうより古い元嘉暦ではない)とよく合致するとされる。儀鳳暦より古い時代の暦は、19太陽年が235朔望月と等しいとして19年に7回の閏月を入れるメトン周期が用いられているが、このメトン周期は紀元前433年にアテナイの数学者のメトンによって見出されたとされ、日本書紀にあるように紀元前660年に日本で太陰太陽暦が用いられていたとすればより原始的な太陰太陽暦でなくては時代が合わない。しかしそうした暦法を想定すると実際の日本書紀の朔日干支の記述と合致させることは難しい。渋川晴海は日本書紀暦考にて辻褄合わせを試みているが、内田正男は日本書紀暦日原典にて「渋川晴海のように,架空の暦法を創造し,しかも度々の改暦を想像しない限り,閏字脱落のつじつまを合わせることはできない。問題をわざわざ複雑にする必要はない。儀鳳暦(平朔)が用いられたことを認めるべきであろう」と評している。
年代の妥当性
辛酉革命説
神武天皇即位紀元が使われている現行法令