皇紀
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神武ノ始ヨリスデニ千百余年ニ成ヌルニヤ」と記している[7]

江戸時代になると、『大日本史』の編纂に参画した儒学者森尚謙は、元禄11年(1698年)に執筆した『二十四論』中の「日本、唐に優る八」の「一 皇祚」の項で、「恭しく惟ふに我が大日本は、天神七代地神五代、その嗣を神武天皇と稱し奉る。其の即位元年辛酉より今元禄十一年戊寅に至るまで二千三百五十八年。皇嗣承継、聖代の数一百十四代(後略)」と記し、神武天皇即位から元禄11年(1698年)まで2358年であることを述べた[8]

水戸学者の藤田東湖は、天保11年(1840年)が『日本書紀』が記す神武天皇即位の年から丁度2500年目にあたっていることから「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩を作った[9]。また、弘化4年(1847年)、藤田東湖は自著の『弘道館記述義』において、「正史の紀年は神武天皇辛酉元年に始まる。辛酉より今に至る迄、二千五百有余歳、神代を通じて之を算すれば、凡そ幾千万年なるをしらざるなり(原漢文)」と書き、神武天皇即位元年が歴史の紀年の始めであることを宣揚した[8]

幕末に入ると、津和野藩国学者・大国隆正は、安政2年(1855年)に著した『本学挙要』のなかで、西洋にキリスト紀元があることを指摘した上で、神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱した[10]。当時は開国攘夷か、尊皇佐幕かで大きく揺れていた時代であって、神武天皇即位からの年数をかぞえる紀年法(紀元)は尊皇思想と結びついていた[11]
制定まで

慶応3年12月9日1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられ、新政府が樹立した。王政復古の大号令に「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」とあるように、新政府は「神武創業ノ始」に回帰することを標榜したが、この決定に与って力があったのは、「中興紀元」を提唱した大国隆正の門人の玉松操であった[5]。その後、一世一元の詔により明治改元と「一世一元の制」が実現したが、明治2年(1869年4月刑法官権判事津田真道集議院に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議した。津田は年号を使った年月日の表記は煩雑で分かりにくいのでこれを廃して紀元を採用すべきだとした。また、西洋のキリスト生誕紀元(西暦)やイスラームヒジュラ紀元ユダヤ教天地開闢紀元などいくつかの紀元を例に挙げ、日本も独自の紀元を設けて、以降はそれを使い続けるべきだとした。そしてその我が国独自の紀元として神武天皇即位を紀元とすべきだと主張した[11]
制定

明治5年(1872年)、神武天皇即位を紀元とすることが「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)[12][注 4]公布の6日後に「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)[注 5]で布告された。

今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[注 6]参朝可憚事 ? 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治五年太政官布告第三百四十二号)[13][注 7]

口語訳するに「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布され、神武天皇の御即位を紀元と定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典が執り行われることになった(ので参内する資格のある者は出席すること)。ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」となる。文面からもわかるように神武天皇即位紀元がいつのことであるのかの具体的な数字は無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている。布告の主旨は、天皇臨席のもとで開かれる、改暦と神武天皇即位紀元の制定を記念する式典の開催を通知することであった。

公文書では、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年11月外務省から各国公使領事へ通知した文書に「明治六年 神武紀元二千五百三十三年」と見える[14]
制定後

神武天皇即位紀元を制定した後、文書の日付の書き方をどのように統一するのか(年号を廃して紀元一本とするのか、年号と併用するのか、その場合にどちらを主とするか、など)という懸案事項が残った。政府は神武天皇即位紀元の制定から時を隔てず、明治6年(1873年1月9日左院に紀元と年号の問題を審議させたところ、左院の回答は
紀元が制定されたからには年号の使用は考えられない。年号の使用は公私ともにこれを禁止すべきだ。

正式の表記は「二千五百三十三年」のように、略式は「二五三三年」のように記す。

というものであった。政府があらためて年号と紀元の併用を方針として再度下問したところ「(年号と紀元の併用に)異議無し」との回答が得られた[11]

明治時代に政府は年号と皇紀の併用を前提として、国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定した。それによると最も正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになった[11]
元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性


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